1月11日

今日は茉莉子さまの誕生日。
台湾料理屋で友達とふたり飲んで、『秋日和』や『秋刀魚の味』の、あの勝ち気で、グイグイと、ズケズケと、攻め/責めてくる茉莉子さま(でも優しい!!)のモノマネを一通りやって、『秋津温泉』だ『エロス+虐殺』だの話をして盛り上がり、楽しく帰宅。やっぱり今でもこういう話をする機会は私にとって必要で。年々減らしちゃいけないものだなと。

http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/entertainment/wide_show/?id=6103445
年の暮れ、年明けはこういうニュースがよく入るとはいえ、今日は淡路恵子さんが…。4年前の同じ日にはロメールが亡くなったんだった。


http://www.youtube.com/watch?v=pbcsorllPpY
当初は一本ものの企画で井伏鱒二原作、後に駅前シリーズとして続くことになる1958年の『駅前旅館』。コメディリリーフは主にフランキー堺が、ペーソスは森繁、あと伴淳。そして二人の“淡”いには艶がある。豊田作品で言えば西の『夫婦善哉』より東の『駅前旅館』の方が、今は好きだったりする。一昨年、新潟の高島座という明治創業の映画館(2011年閉館→その後は年に一度上映会を開催)で、この作品をスクリーンでみる機会があって。今ではほとんどみる機会のないカーボンアーク灯式映写機での上映。2本の炭素棒を電極として空気中で放電発火させ、その光で映写をするもので、炭素棒の距離が近すぎたり遠すぎたりすると消えてしまう。微妙なさじ加減で明るくなったり、少し暗くなったりする。そのゆらめく仄かな灯でスクリーンに映し出された映像は、息を飲むほど美しかった。すでに全国の映画館ではデジタル映写機の導入を急ぐ最中、フィルム映写機がなくなってしまう前に自分たちが体験したことのないカーボンの淡く揺れる灯のもとで上映をみたかった。映像は鮮明であるだけが美ではないよね、やっぱり。とりわけこの作品の旅館の風呂場の暗がりや、二人がシケ込む夜の神社の境内には淡い光がよく合った。この映写機ツアーの発端は、今日飲んでいた友達の「見たい、行こう行っちゃおう」が始まりだった。今年もまた暖かくなったら映画館巡礼の計画を立てます。人は旅に出ないと滅びる。

You 're not an asshole.

ソーシャル・ネットワーク
弁護士二年目マリリン・デルピー役のラシダ・ジョーンズ
彼女がマークに教えてあげるこの台詞。

You 're not an asshole, Mark. あなたは嫌な奴じゃない。
You're just trying so hard to be. そう振る舞ってるだけ。


音源まである(笑) グサっとくる人が多かったのか(笑)
http://www.hark.com/clips/nxtbcxzzgc-youre-not-an-asshole



ソーシャル・ネットワーク』は、もう何度見直したろうか。訴訟の最中にあっても、マークとエドゥアルドの長年の関係は時おり垣間見えて面白い。くるっと背を向けて話したりね。エドゥアルドが「フェニックス」入会のため大学構内に鶏を連れて歩き、食堂で○○○を食べさせたという大学新聞の記事に話が及んだ際には、マリリン・デルピーが思わずクスっと笑う。最後の場面まではどういう立場かもわからない彼女(名前は一回も出ない)だが(※追:いや途中でバッチリ自己紹介してましたw …全く何を見ているんだか)。マークとエドゥアルドが互いに「Oops!」と言い合うここらへんのくだりが毎度好きです。アーロン・ソーキン脚本の台詞はどれもこれも痺れる。アメリカ映画の伝統である「法廷劇」ではなくて、会議室でこのやりとりが行われているのも、この映画を面白くしてるよね。何階なのかはわからないが、夕暮れ時の空やビル街の景色がパーっとみえる。大学構内をテテテと歩いているマークを俯瞰でとらえる幾つかのショットとともに、私がいつもの生活の中でこの映画を思い返すのは、そんな場面に似た風景をみたり思い浮かべたりした時だ。怒涛のような台詞が印象的なこの映画にあって、何故なのかはわからないが。来月もみちゃうね、コレ。


http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/776_14941.html
長閑(のどか)なお正月に、長閑って何なのか考える。
草枕』の冒頭を読み返しながら。
何らかの立場にたって話そうとするのは、最終的に窮屈な思いをする。
気がつけばそう振る舞っているというのは、いつも陥った後で気づくもの。
今年はあんまり窮屈な思いをしないように工夫をします。目標。
例年よりも多く、長閑なスペースで自分にとっての言葉を探せますように。
どうぞ宜しくお願いします。

20 Seconds of Courage

Rotten Tomatoesみて笑ったけど、近年のキャメロン・クロウの評価低いね〜。『エリザベスタウン』なんて評価28%で腐ったトマトだらけ。キルスティン・ダンストがあんなに可愛くてユニークな映画もないのに。“We Bought A Zoo”(邦題:幸せへのキセキ)のエル・ファニングも抜群に可愛らしかったけど、実はそれまで二人の女優の魅力にあんまり気付けていなかった私からすると、キャメロン・クロウがその魅力を引き出し、垣間見せてくれた功績は大きい。とっても大きい。これは彼の映画に特徴的な「誰かが見つめている」という主題にも深く関係していると思う。

キャメロン・クロウの映画には、「誰もが独りでいる時にやってしまうバカげた振る舞いを、誰かが見ている」という愛おしさがある。『セイ・エニシング』では初デートの帰り道、彼女を玄関で見送った後、通りの真ん中で四方に投げキスをおくって一人はしゃぐジョン・キューザックを、彼女と父親が見ている。『幸せへのキセキ』では、開園前に資金が底を尽きそうで己の不安な気持ちと格闘するマット・デイモンを、スカーレット・ヨハンソンら動物園の飼育員が見ている。また『エリザベスタウン』でクレア(キルスティン・ダンスト)は常にドリュー(オーランド・ブルーム)を見つめている。クレアが何度か手でフレームをつくってドリューの後ろ姿をカシャっとやる仕草は象徴的だ。長い長い電話の果て、ようやく「どこかで会えないか」と切り出すドリューに、バスルームで泡風呂に浸かって「マジかよっ」と笑いを浮かべなからも「(誘って)キター!!」の顔をするクレアほどキュートで微笑ましい姿はない。


可笑しいのは、そうは言ってもクレアは青い風船や赤い帽子、クーポン券、手作りのロードマップを使って、何度も「見つけてもらう」ことを目指しているということ。「これで見納め」とひとが思うときにする“最後の視線”をやたらと気にしているドリューだが、逆に彼がいつも気にかけている人々におくる眼差しからも明らかなように、キャメロン・クロウの映画において、視線の持続は「愛」なのだ。思えば『バニラ・スカイ』も、目を逸らさずに現実を受け止めるまでの話であり、ペネロペが葬儀を見届けにきてくれていたという点が最終的には重要になる。最後には冷凍保存されたトム・クルーズの肉体が解凍されるわけだが、以降の2作品『エリザベスタウン』、『幸せへのキセキ』においても、「見ている/見てくれない」という関係性と、失われたものをじっくり受け止めて再出発するまでの時間が描かれる。いやこれがトム様の肉体の如しで「氷解」という言葉が一番適切。キャメロン・クロウの映画の特異な点は、通常ならすんなり上手く行きそうな男女が、結構じれったい形で引き延ばされるということ。しかし、そこにこそ見守る、見届ける、見続ける、見逃す、見失うの展開が待っている。

一方でまた『エリザベスタウン』は(主人公から見れば)父の死、『幸せへのキセキ』は(同じく)妻の死を家族が体験した話でもあるが、この亡き者との関係性を家族が励まし合うだけでなく、家族それぞれが独りの時間で相手(死者)と向き合うことで氷解するという貴重な時間の経過が描かれてもいる。わたしが最近になって再びキャメロン・クロウの映画を愛してしまった所以はおそらくここにある。喪中って意外と人前では気を使ったり、気丈に振る舞ってなきゃいけなくて。何気なく独りで過ごす時間の方が思い出したりドッと気持ちが押し寄せたりするもんだと思う。そういうことが歳を取って分かると、『エリザベスタウン』での一見不可解な家族の行動の謎が解けてくる。葬儀で「ムーン・リバー」をタップダンスで踊る母親とか、後半20分だけで『星空の旅人たち』一本分の遺灰撒きツアーに出ちゃうオーランド・ブルームとか。すべての経過が段階的であることは、「見守る」「見届ける」という長期的な持続性と、そして「見つける」ということの瞬間的な輝き(=20秒の勇気!!)を宿すことになる。彼の映画はそういった魅力に溢れている。

Will you meet me later...

第11回原宿シネマ|花くまゆうさく - ハイスクールを感じる映画たちvol.1 - 『セブンティーン・アゲイン』
原宿シネマで花くまさんも大プッシュしてた『セブンティーン・アゲイン』、私も大好きな映画ですが、この映画の監督さん、バー・スティアーズってフィルモグラフィみると『パルプ・フィクション』に出演ってなってる。
どこに写ってるどの人かと思って検索してみたら、ハーンなるほど。初っ端からトラボルタとサミュエル・L・ジャクソンの二人組にぶっ放されておりました。
Pulp Fiction
http://www.youtube.com/watch?v=zdL7N3wkpco

セブンティーン・アゲイン』の公開時2009年は、まだ毎日のようにNBAの試合結果をチェックするほど熱心に追っかけていたので、Twitterでシャックがこの映画を見に行くとつぶやいていたのを覚えてます。
http://www.youtube.com/watch?v=r0WxWOZP9qc
こちらはこの映画のエンド・クレジット。スタッフやキャストのハイスクール時代の写真で卒アル風につくられていて、見終わった後にクレジットみると毎回泣けてくる。バー・スティアーズも一番最初に出てきます。
で、これは我らがドリュー・バリモア姉さん主演のヒット作『25年目のキス』(1999年)のエンド・クレジットを真似ているもの。そういえばあの話も25歳のドリューがハイスクールに逆戻りする話だった。
クライマックスのキスシーンは、もうアメリカではどのくらいの知名度なんだろう。誰もが「あーアレね」と思う程度には知れ渡ってるものなのかな。キスシーンのモンタージュ映像なんかにもよく入ってるしね。
http://www.youtube.com/watch?v=YTcx9GaVcbA
Don't worry baby -The Beach Boys

http://www.youtube.com/watch?v=hVFs1fPOHDU
Best coast -Our deal

ドリュー姉さんが監督、クロエ・グレース・モレッツ出演のベスト・コーストのPVは、なんとなく『25年目のキス』のラストを思い出します。曲調のせいだね。
しかし、久々にブログを書きました。

名刀美女丸

『名刀美女丸』(溝口健二/1945年)をDVDで見る。繰り返し刀を打つシーンは、これ劇場でみて大丈夫なのか?と思うほどの閃光で目がチカチカする。『砂漠の鬼将軍』の空爆くらいチカチカする。
ベルさん(撮影時28歳)は着物を縫いながら、くだらぬ心配を問いただしに近う寄る清音にパスッと竹刀一発、間があって、プッと笑う。仇討ちものとはいえ、このシーンのベルさんは茶目っ気たっぷり。

この作品も美術考証は甲斐荘楠音。清音と笹枝が再会する夜道や討ち入り、終盤の殺陣の場面は凝っているし、ベルさんの幽霊にもおったまげる。おどろおどろしい感じではないけれど。

1945年は終戦の年。物資不足でフィルムは配給制となり、一時間前後の映画しか作れなかった時代。ひたすら刀を打つ『名刀美女丸』(2月公開)も、ひたすら矢を射つ成瀬の『三十三間堂通し矢物語』(6月公開)も90分に満たない時代劇。

主人公の愚図りと挫けのリアリズムと、一方でスターである山田五十鈴長谷川一夫のヒロイズム。ヒーローものの典型、お約束。こういうことはずっと変わらない。戦意高揚(プロパガンダ)でも、映画の高揚感でもある。

舌をペロッと出すほどの茶目っ気ではない。ではないにせよ、山田五十鈴がプッと笑う1シーンが今ずっと頭の中を回り続けている。

hair cut

今日しか今週休みが取れないとわかったので、午前中に会社で伝票処理して、午後からユーロで『大地の時代』(クラウベル・ローシャ)を。映画の解体、カオス、狂気とは言われているものの、ローシャは極めて冷静、かっちりとした作りの人だと思う。(終わり方の混沌はともかく)
ソリッドな歴史劇――政治・宗教劇、野外で、囲む観衆=民衆もかちっとした表情、視線を崩さない。ワイズマンやゲリンにみられるあの生々しさは皆無(個人的にはこちらを、ある解体、あるいは溶解と呼びたいのです)。ただ、その演劇自体が画面いっぱいに禍々しく、荒々しく、騒々しい。演説やインタビューの声のボリュームにも増して聞こえてくるグラスの氷の音が、もはや涼しくない。画面もときにはパツッパツッ飛ぶグルッグル回る、そこで不意に音が止まり、空撮ショット。これには完全に心をもっていかれた。静止の美が目についた今回のローシャ。演劇=人生の作家にもこのようなヴァージョンがあることにただ驚く。アントニオーニが絶賛というの、わかる。今とっても『赤い砂漠』*1が見たい。

【※今日はちょっと変わったお店の紹介をします!】

映画の帰りに出会した友達と軽食。用事があるとのことで、すぐに手をふる。何にもなくなってしまった渋谷をしばし徘徊し、あたりが暗くなってから下北沢へ。いつもの美容院に行く。2年前に店名を変えリニューアルし、独立して夫婦だけで営むことにしたお店。新しく、アンティークの家具に固め、古いタイプライターや花瓶などを飾る。前の名前の時からずっと同じ人に髪を切ってもらっている。その人は、私が以前、都内に住んでいたところが地元で、旦那さんは私と同郷。お店や風景を言われてすっと思い浮かぶ。お盆も正月も故郷に帰らない身としては、美容師さんから話してもらう金沢旅日記がいつも愉しみで、里帰りみたいなものになっている。とても話し方の上手な人で、物腰の柔らかい人。(美容院なのに自分が適当な話をし続けなくてもいい、聞き手に回れるというのは魅力的でしょ?)ただ、いつもいつも珍事件や妙な話ばかり。だいたい郷土料理が合わないのか、美容師さんはいつも、あんまり美味しくないって話を物腰丁寧に話してくれる。(かぶら寿司やおせちのべろべろ、ウゲーとは言わないけど、ウゲーでしょそれ、と伝わる。) あとは旦那さん家族の奇妙な習慣とかやりとりとか、手取りフィッシュランドに行ったけどただ疲れてヘトヘトとか、可笑しくてしょうがない。本日は旦那が復活したメローイエローを毎日買って飲んでいる、懐かしいらしい、という話から。
「私も飲みましたよ、美味しかった」「でも、あれって何の味ですか?不思議な味ですよね?」「とっても訳せない味、らしいです」 ここで旦那が遠くから「美味しいですよねー、シトラス・フレーバーだったかなー」 「そうですそうです」「へーでもあれ薄くないですか?ちょっと薄い、物足りない味ですよね?」と、またしても味が合わないらしい。爆笑。
手のあいた旦那さんに髪を流していただく。すると、すぐ隣の事務室の扉から袋ガサゴソ、バシャっと開く音、その後の煎餅をかじる音。洗髪後、鏡ごしにちらりと戻ってきた奥さんの最後のモグゴックンが見えたので、こらえきれず笑ってしまった。とにかく何で今日はこんなに豪快に元気なんだろうと思っていたら、終わった後に大切なご報告。「実は私、子供を授かったんです。」とのこと。おやまあと、単純に嬉しかった。
実はここの店名、あるフランスの映画作品と同じ名前なんだけど、奥さんはその映画のことを知らない。またマッチやお店のスタンプカードに“未来は常に懐かしく、過去はいつも新しい”と書いてあるんだけど、ご夫婦は森山大道のことを知らない。たまたまどこかに書いてあったのをみて、気に入ったのだそう。きっと子供も素敵な名前がつくと思うんだよね。お店ももうすぐで3年目に突入。そういえば2年前に独立のご報告を受けた時も、こんな段々と蒸し暑さが増してくる季節で、どうしても髪を切りたくなったんだっけね。大道のタイトルの言葉、実際その通りだといつも思ってます。
髪もさっぱりして気持ちのいい夜。長さほとんど変わらないけど。ふと思い出して、いーはとーぼへ。以前ここへ私はいつ誰と来たのか、もう思い出せないけど…。店内のボリューム大きくしてますとのこと。丁度いいじゃないっすか。飲み物のついでに、林檎を何かに浸けたもの(失念)をひとかけ、つけてくれた。おいしい。また来よう。さて、しばらく髪がのびたらどうしてようか。
帰りの電車でしばらく停滞していたピンチョンの『逆光』の続きをまた読み始める。ピンチョンの小説では色んなキャラクターがふいに登場しては膨れ上がるように描写されていく。その街で、顔を合わせる人、合わせない人。ちょうど切りよく終わる。
「きれいじゃないか! これ以上、何が望みだ?世界の終わりが見たいのか?」「今日はこれで十分だ」とウェブは肩をすくめた。「もちろん」ヴェイッコはウオッカを注いでいた。「独立記念日おめでとう、ウェブ」

*1:アントニオーニ初のカラー作品。出だし、工場とモニカ・ヴィッティハンバーガー。そういえば『東京公園』にちらとDVDの写ってた『Blow Up』も、久々見たいなー

『Petit Tailleur』

ルイ・ガレルの監督作品「小さな仕立て屋」を輸入DVD(Merci!)で。無字幕版ながら、結果そのほうが初見時は良かったんじゃないかと思えるほど。ルイ・ガレル、これ楽しく撮ったんだろうな。ささやかな作風ながら、丹念で、軽快。存分に堪能。長編作が楽しみだよ。
ひとつに、“ダイアリー”としての時間の経過、移動を丁寧に捉えていて、家→移動→仕立て屋の工房→移動→劇場→広場→カフェ→街路……と、それらが徐々にリズムを増し、クロスカッティングされることで、とても良い緊張と高揚を生んでいる。遅刻・遅刻・遅刻、訪問に次ぐ訪問、疾走のリズム、深夜カフェ、真夜中の街路、ホテルのロビー、作業を間に合わせた後のソファーからの煙草の煙、そしてこれらのイメージがいつも長い夜→いつの間にか朝のジャンプカットによって日々を積み立て、夜と朝のとばりを重ねていく。
主人公の首にかけられた白と黒のメジャーがとても印象的。まぁ見事なまでに、小さな、ささやかな仕立て屋とはルイ・ガレルのことだね。彼は彼のきっと好きであろう使い古されたセピアのイメージをうまく繋ぎ合わせして、シンプルな、新しい服=作品をこしらえたんだと。そしてまたmaplecat-eveさん*1の言うように、ヌーヴェルヴァーグの嫡子であるルイ・ガレルが、じつに容易くさまざまな過去のイメージやストリームスを継承しながら、こんなにも小さく、さわやかな白地の上に裁ち上がったということに感激。もはや「考えるひと」の悩ましげなポーズ、そのイメージさえもが愉快に撮られているというこの軽妙なスタイルに、歓喜の声をあげたくなる。酒場で、賛美歌とともに友人もまた悩ましげなポーズ、歌い手のふたり、飲み干されたグラスに、恋人たちの時間、恋人たちの常なる悩みにも、ささやかに祝福が捧げられている。
もう一つ指摘しておきたいのは、この中編映画には、数少ない登場人物――会話の内容がわからずとも、主人公とどのような関係なのかはちゃんとわかるキャラクター造形と演出、恋人と友人、大いなる先達=仕立て屋の師(老夫婦)、エネミー(第三の男)の他に、「劇場の出口」=巷には、多くの名もなき人々、恋人たちが溢れかえっていたということ。幾度か挿入されるそのイメージは『ミルク』(ガス・ヴァン・サント)にも似て、街角や舗道、広場が恋人たちの舞台であることを映し出している。そしてそれはヌーヴェルヴァーグの仲間たちも然り。
もちろんレア・セドゥにも魅了されっぱなしで(彼女のユニークな存在については今もって研究中…『美しき棘』も見てきたよ)。服を作るために、寝ているレア・セドゥの身体を採寸するというシーンはエロティックで、あの鉛筆の音=ノイズのゾクゾク感は『美しき諍い女』(ジャック・リヴェット)なんだけど、さらっとしてんだ扱いが。かつて「甘美なイメージ」の一瞬一瞬は、人生という永遠の長さと対置され悲劇的な美をも纏っていたけれど、今はそこから大きく時を隔てているなぁと。しかし、このことは地続きで、それを見つめ続けた多くの身体の上にこそ刻まれているスタイルなのだと。花束は、誰に向けられようか。ラストの仕立て屋のマエストロの台詞、何て言ってるのか気になるな。