20 Seconds of Courage

Rotten Tomatoesみて笑ったけど、近年のキャメロン・クロウの評価低いね〜。『エリザベスタウン』なんて評価28%で腐ったトマトだらけ。キルスティン・ダンストがあんなに可愛くてユニークな映画もないのに。“We Bought A Zoo”(邦題:幸せへのキセキ)のエル・ファニングも抜群に可愛らしかったけど、実はそれまで二人の女優の魅力にあんまり気付けていなかった私からすると、キャメロン・クロウがその魅力を引き出し、垣間見せてくれた功績は大きい。とっても大きい。これは彼の映画に特徴的な「誰かが見つめている」という主題にも深く関係していると思う。

キャメロン・クロウの映画には、「誰もが独りでいる時にやってしまうバカげた振る舞いを、誰かが見ている」という愛おしさがある。『セイ・エニシング』では初デートの帰り道、彼女を玄関で見送った後、通りの真ん中で四方に投げキスをおくって一人はしゃぐジョン・キューザックを、彼女と父親が見ている。『幸せへのキセキ』では、開園前に資金が底を尽きそうで己の不安な気持ちと格闘するマット・デイモンを、スカーレット・ヨハンソンら動物園の飼育員が見ている。また『エリザベスタウン』でクレア(キルスティン・ダンスト)は常にドリュー(オーランド・ブルーム)を見つめている。クレアが何度か手でフレームをつくってドリューの後ろ姿をカシャっとやる仕草は象徴的だ。長い長い電話の果て、ようやく「どこかで会えないか」と切り出すドリューに、バスルームで泡風呂に浸かって「マジかよっ」と笑いを浮かべなからも「(誘って)キター!!」の顔をするクレアほどキュートで微笑ましい姿はない。


可笑しいのは、そうは言ってもクレアは青い風船や赤い帽子、クーポン券、手作りのロードマップを使って、何度も「見つけてもらう」ことを目指しているということ。「これで見納め」とひとが思うときにする“最後の視線”をやたらと気にしているドリューだが、逆に彼がいつも気にかけている人々におくる眼差しからも明らかなように、キャメロン・クロウの映画において、視線の持続は「愛」なのだ。思えば『バニラ・スカイ』も、目を逸らさずに現実を受け止めるまでの話であり、ペネロペが葬儀を見届けにきてくれていたという点が最終的には重要になる。最後には冷凍保存されたトム・クルーズの肉体が解凍されるわけだが、以降の2作品『エリザベスタウン』、『幸せへのキセキ』においても、「見ている/見てくれない」という関係性と、失われたものをじっくり受け止めて再出発するまでの時間が描かれる。いやこれがトム様の肉体の如しで「氷解」という言葉が一番適切。キャメロン・クロウの映画の特異な点は、通常ならすんなり上手く行きそうな男女が、結構じれったい形で引き延ばされるということ。しかし、そこにこそ見守る、見届ける、見続ける、見逃す、見失うの展開が待っている。

一方でまた『エリザベスタウン』は(主人公から見れば)父の死、『幸せへのキセキ』は(同じく)妻の死を家族が体験した話でもあるが、この亡き者との関係性を家族が励まし合うだけでなく、家族それぞれが独りの時間で相手(死者)と向き合うことで氷解するという貴重な時間の経過が描かれてもいる。わたしが最近になって再びキャメロン・クロウの映画を愛してしまった所以はおそらくここにある。喪中って意外と人前では気を使ったり、気丈に振る舞ってなきゃいけなくて。何気なく独りで過ごす時間の方が思い出したりドッと気持ちが押し寄せたりするもんだと思う。そういうことが歳を取って分かると、『エリザベスタウン』での一見不可解な家族の行動の謎が解けてくる。葬儀で「ムーン・リバー」をタップダンスで踊る母親とか、後半20分だけで『星空の旅人たち』一本分の遺灰撒きツアーに出ちゃうオーランド・ブルームとか。すべての経過が段階的であることは、「見守る」「見届ける」という長期的な持続性と、そして「見つける」ということの瞬間的な輝き(=20秒の勇気!!)を宿すことになる。彼の映画はそういった魅力に溢れている。