『Petit Tailleur』

ルイ・ガレルの監督作品「小さな仕立て屋」を輸入DVD(Merci!)で。無字幕版ながら、結果そのほうが初見時は良かったんじゃないかと思えるほど。ルイ・ガレル、これ楽しく撮ったんだろうな。ささやかな作風ながら、丹念で、軽快。存分に堪能。長編作が楽しみだよ。
ひとつに、“ダイアリー”としての時間の経過、移動を丁寧に捉えていて、家→移動→仕立て屋の工房→移動→劇場→広場→カフェ→街路……と、それらが徐々にリズムを増し、クロスカッティングされることで、とても良い緊張と高揚を生んでいる。遅刻・遅刻・遅刻、訪問に次ぐ訪問、疾走のリズム、深夜カフェ、真夜中の街路、ホテルのロビー、作業を間に合わせた後のソファーからの煙草の煙、そしてこれらのイメージがいつも長い夜→いつの間にか朝のジャンプカットによって日々を積み立て、夜と朝のとばりを重ねていく。
主人公の首にかけられた白と黒のメジャーがとても印象的。まぁ見事なまでに、小さな、ささやかな仕立て屋とはルイ・ガレルのことだね。彼は彼のきっと好きであろう使い古されたセピアのイメージをうまく繋ぎ合わせして、シンプルな、新しい服=作品をこしらえたんだと。そしてまたmaplecat-eveさん*1の言うように、ヌーヴェルヴァーグの嫡子であるルイ・ガレルが、じつに容易くさまざまな過去のイメージやストリームスを継承しながら、こんなにも小さく、さわやかな白地の上に裁ち上がったということに感激。もはや「考えるひと」の悩ましげなポーズ、そのイメージさえもが愉快に撮られているというこの軽妙なスタイルに、歓喜の声をあげたくなる。酒場で、賛美歌とともに友人もまた悩ましげなポーズ、歌い手のふたり、飲み干されたグラスに、恋人たちの時間、恋人たちの常なる悩みにも、ささやかに祝福が捧げられている。
もう一つ指摘しておきたいのは、この中編映画には、数少ない登場人物――会話の内容がわからずとも、主人公とどのような関係なのかはちゃんとわかるキャラクター造形と演出、恋人と友人、大いなる先達=仕立て屋の師(老夫婦)、エネミー(第三の男)の他に、「劇場の出口」=巷には、多くの名もなき人々、恋人たちが溢れかえっていたということ。幾度か挿入されるそのイメージは『ミルク』(ガス・ヴァン・サント)にも似て、街角や舗道、広場が恋人たちの舞台であることを映し出している。そしてそれはヌーヴェルヴァーグの仲間たちも然り。
もちろんレア・セドゥにも魅了されっぱなしで(彼女のユニークな存在については今もって研究中…『美しき棘』も見てきたよ)。服を作るために、寝ているレア・セドゥの身体を採寸するというシーンはエロティックで、あの鉛筆の音=ノイズのゾクゾク感は『美しき諍い女』(ジャック・リヴェット)なんだけど、さらっとしてんだ扱いが。かつて「甘美なイメージ」の一瞬一瞬は、人生という永遠の長さと対置され悲劇的な美をも纏っていたけれど、今はそこから大きく時を隔てているなぁと。しかし、このことは地続きで、それを見つめ続けた多くの身体の上にこそ刻まれているスタイルなのだと。花束は、誰に向けられようか。ラストの仕立て屋のマエストロの台詞、何て言ってるのか気になるな。