date

昨日は結局お洗濯中にベランダで融通の利かない台湾リスと喧嘩して大幅に時間が狂ったため、シャブロルに間に合わず…渋谷でオリヴェイラを再び、2本みて、エドガー・ライトをこよなく愛する支配人とビールがぶがぶ、そのまま夜のライズで『スコット・ピルグリムVS.邪悪な元カレ軍団』を見てきました。外国のお客さんより大きな声でケタケタ笑うかつての劇場の支配人と一緒に行けたのはとてもラッキーでした。この映画は今の地方の単館の、かっつめスケジュールの中でひときわ煌めいて欲しい作品。キッズたちに。普段は勉強や部活ざんまいの地方のキッズたちに。あるいは孤独を持て余してるキッズに。そして今はそういうこともすべて出来ない状況にあるキッズたちに。大丈夫この映画は禁止用語をうまいことネタで隠してあるからR指定じゃない。
ローラーガールズ・ダイアリー』が地方でもコケたって話をシネモンドで聞いたときはショックだったけど、よく考えれば自分たちも『ゴーストワールド』シネモンドで見たんじゃなくってWOWWOWで録画したやつ回して見てたんじゃんね。どんな形でだっていい。誰かと「これ面白いね」があればいいよ。今日は10年前にその録画したビデオ貸してくれた友達の誕生日で、あさっては自分の誕生日。おめでとう、おめでとう。
私は東京で映画館の味を占め、ルノワール森崎東ボリス・バルネットの映画を見知らぬ人たちとみて、場内が笑いでねじれるという異様な体験を知りました。いつも夕方かレイトのくたびれて少しだけ忙殺していたはずの惨めな思いがめくれてくる そんな時間帯にケタケタと心底から笑って過ごせたのは、今にして思えば大きなことでした。
フィクションの抱える力は今すぐ訴えるものではないし、いま現在多くの実際に出来ることからは遠くにあるような気にさせられるけれど、及ぼす力は多くの作品の見かけほど呑気なものでもないはずです。「これいいね」から始まるエトセトラが、いずれまたそこかしこに溢れるよう、色んな形での届け方を考えながら生活していきます。



マノエル・デ・オリヴェイラコロンブス 永遠の海』『ブロンド少女は過激に美しく』/オーディトリウム渋谷:http://a-shibuya.jp/archives/395

スコピル公式サイト:http://www.scottpilgrimthemovie.jp/index.html

トスカーナの贋作


いやー染みたね。胸の奥深くに突き刺さる映画だった。
一緒にいることのどうしようもなさ、一緒にいたいことのどうしようもなさ、いないことの、どうしようもなさ。

キアロスタミの映画はいつも交渉に継ぐ交渉。世界はどこまでいっても小さな小さなdiscordと諍いの嵐なんだと教えてくれる。
イタリア、南トスカーナ地方で、講演のためにやってきた英国の作家ジェームズ(ウィリアム・シメル)と、ギャラリーを経営しているフランス人女性(ビノシュ)の当て所もない旅、ドライブ。カフェの女主人(イタリアのmamma!!)に夫婦と間違えられたことをキッカケに彼らは“夫婦ごっこ”(それも『イタリア旅行』のごっこのような)をはじめる。ビノシュの役は子持ちの、美しき諍い女。私は彼女がこの喫茶店で話の途中、不意にみせたひとすじの涙に、何とも言い表しがたい感情を汲み取ってしまった。
ジェームズは本物と贋作についての著作を書き始めたきっかけをおぼろげに話しだす。そのストーリーに出てくる、過去にイタリアに来た際に偶然みかけた子供と母親、というのは どうやらビノシュとその息子のことらしい。このことが段々と分かってきたときにビノシュの流した涙は、ちょっと複雑だ。厭世・倦怠の感、ある種のネグレクト、醜く、みすぼらしい、むごたらしい思い、寂しさ、疲労、、、そんなこんなな思いを抱えながら歩いていた姿を彼に目撃されていたこと。その羞恥…。映画が終わった後になって、このように幾らか言葉を並べ立てることは可能だけれど、実際に私が映画を観ている最中には、ちょうどジェームズと同じように、言葉を失ってしまった。
おそらくは彼女がジェームズの前で取り繕ってきたメッキが脆くも崩れ去ったということも確かなのだろう。“夫婦ごっこ”としてはますます深部へと互いに入り込んでゆくキッカケでもあるのだけれど、ここで忘れてはならないのは、それでも一方でやはり“ごっこ”だということ。彼女は女としてもジェームズとの初めての関係を楽しんでいたかったのだ。この設定は実にうまい。初めて出会った頃のように、というのと、本当に初めてのボーイ・ミーツ・ガールは、別モノ。…と言いたいところだが、映画は、何が「本当に」で、何がそもそものオリジナルなのか、その区別に意味はあるのか、を問うてくる。たしかに。出会うということにおいては、回数もへったくれもないのかも知れない。だからこれは“ごっこ”じゃなくても言えることなんだろう。単純に。妻や母が、女として、日常的に喜んだり傷ついたりすること。
彼女が涙を流すとき、ここは(たしか)彼女だけを写した画面。ジェームスの声(音声)で、「ある親子の物語」が語られる。キアロスタミの前作『シーリーン』と同じ構図。しかし今回は映画や作品と向き合っているのではなく、人と向き合っている。切り返しのジェームズ。彼はここで一瞬、立ち止まる。彼の配慮。この沈黙が、話しかけることをやめないキアロスタミの映画の中であるだけに、なおさら美しい。またここへ来て前半部の息子とビノシュのやり取りが見事に効いてくる。最初だけに登場する息子とビノシュの会話は非常に多くを物語っていた。ジェームズがかつて見たという親子も、すぐにこの子だなということが、わかる。そして彼女は何を取り繕おうとしたんだっけ。そう、彼女は息子がいることを隠したかったんじゃなくて、息子に縛られて常にイライラしている自分が彼の前で露呈されることを避けたかったのだ。イギリス人作家ジェームズの指摘や見解は、常に鋭い、正しい。それだけに、彼女は、うまくいかなくて、ツラい。私はここで、同情ではなくひとりの男性として、ビノシュのように涙を流す女性を素敵だと思う。『おかあさん』の田中絹代の涙と『浮雲』の高峰秀子の涙のあいだにある涙。
是非ともスクリーンで見てきてほしい。ユーロスペースではレイトだけど来月中旬までアンコール上映をしている。涙をふいた彼女が後半、化粧室で鏡を前に向き合い(ちょうどスクリーンを隔てて私たちと向き合う)、再び自分を取り繕うとき、イタリア旅行の“ごっこ”は またも色めき立つ。ジェ、ジェ、ジェームズ。そして恋はシンデレラ。


                                                                                                        • -


・『シーリーン』と『トスカーナの贋作』は、個人的にセット。作品と向き合うこと。人と向き合うこと。
・シンデレラ→http://www.youtube.com/watch?v=hm8Bo_iwudc 
やっぱりカミカミの男といえば大好きなこの映画を思い出す→http://www.youtube.com/watch?v=Zixdh2xId0c&feature=related 嘘から出たまこと 『モーガンズ・クリークの奇跡』
・OUTSIDE IN TOKYO のキアロスタミ・インタビュー→http://www.outsideintokyo.jp/j/interview/abbaskiarostami/02.html 木の話が面白いのと、その話でキアロスタミが「それはあなたはすごく良く見てくれて、道がぐにゃぐにゃになる所で複雑な話が始まるというのは、あなたの想像を尊重します。」と素晴らしい受け答えをしている。彼の人柄は、野上照代さんの『蜥蜴の尻っぽ』(第二部:エッセイ集 『明日へのチケット』のためにキアロスタミの家を訪ねた)を読むと、よくわかる。どうやらもうこの頃には次ビノシュ主演のものでイタリアで、と決めていたらしい。この本で紹介されているキアロスタミとロベルト&イザベラ・ロッセリーニの爆笑エピソードも面白い。それにしても当人の意識しないところで、キアロスタミはつくづくロッセリーニと縁のある人なんだね。

Two Lovers


ジェームズ・グレイの日本未公開作『Two Lovers』をDVDで再見。稀代のトリッキー役者ホアキンはここへ来てその神髄を究める。こっそり玄関から出て行く際の彼のコートの取り方、背中越しに片手でフックから外してもう一方の手でキャッチ、それをスムーズかつ自然な流れの中でやってしまえるということに唸る。彼の引退宣言なんてマイケル・ジョーダンのそれと一緒で、いつ撤回されるかわかったもんじゃない。信じちゃいないよ。
この映画、始まり方がムチャクチャ格好いい。そして美しい。≪『ミレニアム・マンボ』の冒頭スー・チーの背中の誘い≫、と書いてホアキンの背中を思い浮かべて吹いた。レナード(ホアキン・フェニックス)自身はいたってシリアスな決意で水に飛び込むのだけど、救助された彼はびっくりするほど情けなくて笑ってしまう。ずぶ濡れのドライクリーニング屋さんだなんて。…とここで自分のホアキンに対する視線が、いつの間にか冒頭に(のみ)出てくる野次馬のささやいていることと同調していることに気づく。完璧な導入部だと思う。この後、映画は各場面が誰かの声やラジオ、着信などの音によって次々と切れ目なく繋がれてゆく。まるで曲と曲のあいだにいっさい切れ目のない一つのアルバムのように。クラブの外でホアキンが30分も待ってたなんて「え、いつ?」というくらいに、待つことは周到に省略されている。恋に昼も夜もないと言わんばかりの勢いで、観客はホアキンの恋の宙づり状態を見守るとともに身をもって体感していくことにもなる。この、ホアキン目線であるときと、何かを見ているホアキン(あるいはイザベラ・ロッセリーニ)をキャメラが捉えているときの切り替え連鎖が実に巧妙だ。面白い、というよりチャーミングなのは、ホアキングウィネス・パルトローとの関係では、ホアキンはいつも窃視している側なのに、何かキッカケを発見したり紡いだりしてくれるのはいつもグウィネスなこと。
どこまでも好対照なグウィネス・パルトローとヴァネッサ・ショウ、二人の人柄、家柄はホアキンとの写真や本、映画DVDを介して為される会話にも顕著だ。皮肉にも、グウィネスとの突飛な出会いや不意に舞い込む予定は、一方で裏地を縫うようにヴァネッサとの確約されたアポントメントと重なることによってより緊張の度合いを高めることとなる。痛烈に鳴り響く、エリーゼのために……。 ホアキンはヴァネッサに連絡するときは家電しか使わず、グウィネスとはケータイで、と完全にアイテムを使い分けている。二人をつなぐ糸がmovable/mobileであるのとないのとでは大きく違う。現代のニューヨーカーがケータイでちゃんと連絡を取れないとどうなるかってのは『ブロークン・イングリッシュ』が痛いほど教えてくれるんだけど、「やっぱりデートはお出かけしてナンボでしょ?」ってのが映画の恋の魔法のかけ方ならば、移動の一切を省かれているヴァネッサと、完全なデートとまでは行かないながらもホアキンと一緒に動いてまわるグウィネスに対する我々の熱の入れようも違ってくるというものだ。ジョブスなシルエットの、ヤッピーがそのまま昇りつめて年取ったようなグウィネスの彼氏(エリアス・コティーズ)との三者面談のときにだって、スーツで決めて出かけちゃうホアキンには軽やかな音楽が流れる。実際、『裏窓』的*1な彼らの位置関係によるこの映画のひとつの快楽も、お出かけありきのものだと思うのだ。彼らを耳もとでつなぐ契機となる場所が、地下鉄*2での移動に際してなのも興味深い。
最終的にレナードはまたしてもの“I have to go”をくらうことになる。冒頭シーンの反復へと向かうかに見えた彼をギリギリのところで繋ぎ止めるアイテム、手袋に泣ける。そして美しくも空恐ろしいラストへと続く。ここへ来て急に頭をもたげることになるのは、最初に逃げ去った婚約者の“I have to go”が果たして本当にホアキンの語るような理由によるものなのか、ということである。真実は往々にして異なるものだ。またしても「引き継がざるを得ない者の宿命」というテーマ。これを持ってラストは戦慄のものとなる。


エンドロールの終わりに耳を澄ませる。“The End”を前にこの映画のいくつものサウンドスケープが浮かび上がる。オペラ、さざ波、犬の遠吠え、鉄道の音……この“The End”は、欲を言えばやっぱり劇場で見たい/聴きたいんだわ。



追記1:『アンダーカヴァー』のエヴァ・メンデスに『Two Lovers』のグウィネス・パルトロー。そして両方に出てくるそれぞれ見間違いの(別人の)金髪の女性…。この過激に美しいブロンド美女に対するジェームズ・グレイオブセッションに驚愕した。その他ジェームズ・グレイ作品『リトル・オデッサ』と『裏切り者』はもう記憶がかなり曖昧。幸い、この二つは都内のレンタルショップで借りることが出来る。


追記2:それにしてもジェームズ・グレイは本当によく家族ってものをわかってらっしゃる。つい何日か前まで里帰りしていたので、色々思い出してしまったけれど。この、家族の視線、家族がいるところで電話することや家に女の子がきた時の反応、遠回しな食事の知らせ方など、どこもおんなじなんですねー。ホアキンの部屋の前でうろついたりしゃがみこんだりする母イザベラ・ロッセリーニ。歳を取ってなおさら母イングリッド・バーグマンの面影を感じさせるようになったイザベラ・ロッセリーニの微笑み。素敵だ。

*1:maplecat-eveさんの日記 Two Lovers:http://d.hatena.ne.jp/maplecat-eve/20100813

*2:暗闇になると窓枠→鏡面となる地下鉄では視線の乱反射が相互窃視的空間を生み出す。いちゃつくカップルに睨まれるホアキン、あそこはマジに痛い…。ストラスブール路面電車とは一味違った、ホアキンとグウィネスの“接触”の機会でした。

何も変えてはならない

「音楽は“しっかり”」

「映画は“楽しく”」

「楽しみましょう!!」












音楽は基本楽しく、だから意識を“しっかり”に。演技(映画)は基本しっかりで、だから意識を“楽しく”なのか。暗闇にうっすらと照らされたジャンヌ・バリバールの白い顔は、ジャン=ルイ・バローのようだ。楽園の子供たち。モノクロの彼女はいくつもの古典的な顔立ちを二重三重に重ねているようにも見える。初めてジャンヌ・バリバールと出会ったとき、『そして僕は恋をする』を見たとき、このジャンヌ・バリバールという女性とエマニュエル・ドゥヴォスという女性を直ちに嫌い(マリアンヌ・ドニクールだけちゃっかり除外しているというのが若気の至り)になった。それはデプレシャンのせいでもある。それから数年を経て『キングス&クイーン』を見る。そこではマチューやドゥヴォス、ここに登場する人物たちがみんな愛おしかった。デプレシャンのおかげである。もとい自身の変化のせいである。そんな頃には一緒に登場していないはずのバリバールのことまで気持ちがいつの間にか刷新されていた。わずかながら年齢の経過を感じた。
もちろん映画の登場人物と実際の役者は別の存在である。でも観客はそれを取り違える。映画史の早い段からずっと、そうやって銀幕の向こう側と自分の生活の世界が繋がっているよう信じてきたのだ。果たしてそれはどこまでが取り違えなのだろうか。別の存在でありながら、同一の身体でもあるものの存在。すでにリヴェットやアサイヤス、デプレシャンとの恊働をしてきた彼女は、虚構と現実を連関させるに限りなく適した女優だ。生活の中で身体が物語ること、発話されること、演じること。役を生きること、フィクションのなかにある現実性。それらを行ったり来たり。「現在進行中の作品(work in progress)」を維持し続けること。監督と俳優とのやりとり。バリバールは協働という言葉がよく似合う。彼女はあの微笑みがただ印象的なのではない。ニッと微笑む、あのタイミングが印象的なのだ。その賢さに、憬れる。一方で(これは何ともまぁ偏見ではあるけれども)“パリジェンヌ”である彼女がとりわけ引き立つ場面は、素直に嫌感情やプライドの意識が表情として態度として出てしまうときで、『何も変えてはならない』ではトレーナーと歌のレッスンをする長いワンカットのシーンにおいてである。彼女の顔のアップと歌、トレーナーの声。何度もストップをかけられ歌い直す。この“しっかり”と言われても嫌な顔一つでも二つでもしてしまいそうな、あるいは出来ない自分に対する嫌気であるとも捉えられそうな、キャメラの前でそういった感情をあらわにするのが彼女だ、であるとともにこれは完全にキャメラを前にしているときの彼女だ。この映画ではバリバールが目の前の椅子に腰掛けて(DVDの特典映像などにある監督や俳優インタビューのように)キャメラに向かって話をするといった場面がない。映るのはいつもの映画の中の役を生きる彼女の姿だ。したがってこれはジャンヌ・バリバールの単なるドキュメントではない。彼女が彼女の役を生きるというフィクションとも言えるし、あるいはもはやそれが彼女なのかどうかもよくわからない闇のなかの集団の、timelessでplacelessな空間の映画でもある。
バリバール。バリバールたち。音楽一座。バリバールの歌声に関して。この“選択”はストローブ=ユイレの『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』で、演奏家(しかし演技経験のない素人)のグスタフ・レオンハルトが俳優としてバッハ役を演じたことと似ている。一つには“自主”映画的な精神に満ち満ちていること。もう一つにペドロ・コスタ(やストローブ)がモノラルで録音することに拘ろうとすることと同じく、バリバールのそのたびごとの身体と表情と不安定な歌声、これは決して「分離してはならない」ものなのだろう。終始 彼女が歌い続ける映画であること。これは野心的選択だ。『あなたの微笑みはどこへ隠れたの?』(2001、ペドロ・コスタ)で、しゃべくりまくるストローブが、ここは濃い味付けが必要だという妻ダニエル・ユイレの言葉に導かれて、こんな素敵なことを言う。「スープだ。映画史上の傑作は沢山ある。我々も愛する傑作だ。それはスープがあるからしっかりする。特に音楽や音声ループ等のスープだ。」

コスタの映画は、キャメラペドロ・コスタ)を前にして人は何かを演じる存在であるということを強く意識させる。観客はその現場に立ち会う。さてそれはどこか。 どこかはわからないが、いつなのかはかろうじて、“現在”とだけわかる。楽園の子供たち(『天井桟敷の人々』の原題:Les enfants du Paradis)の末裔であり、ヌーヴェルヴァーグのコドモでもあるジャンヌ・バリバールの口から「ジョニー・ギター」と歌われる。そこに立ち会う。彼女は映画を生きている。そして我々も。“楽しみましょう!!”
暗闇のなかで音楽と会話が入り交じる。四角い窓から光が入る。どこかもわからない。旅のなかに住まうとともに住居のなかを旅する一味。フィックスの、ペドロ・コスタの位置=関係。この穴蔵のなかで時間と場所の感覚を同時に麻痺させながら、私たちは途中 少しだけ光を見て、ある開放感を得る。それはラストシーンよりも、二人の女性が煙草を吸うよりも遥か手前。序盤だ。ワインから始まる。
「開けてあげる、昔レストランで働いてたの」
「給仕もしたのか、難しかったろ」
「そうでもないわ」
この穴蔵に住まう以前の、地上にいた頃の彼女の姿が光に包まれたカラー映像で頭に浮かび上がる。バリバールの実のことであるにもかかわらず、このことはフィクションの想像力を喚起する。ジャームッシュの『ダウン・バイ・ロー』における脱獄の時のように、私たちはふっと暗闇から開放される。





『何も変えてはならない』公式サイト
http://www.cinematrix.jp/nechangerien/

美しいひと

フランス映画祭(2009)では『美しい人』というタイトルであったが、DVDでは『美しいひと』と変更になった、クリストフ・オノレの、前から見たかった作品をようやくDVDにて鑑賞。

結構この映画は唐突な展開を繰り返していると思う。まさかオットーが成功するとは思わなかったよね。これは完全な狙いとも言えるけれど、他にも、突飛なのはエピソードの主軸だけでなく、たとえば何らメインキャラクターでもない人物(教師)が、何で授業中に外をみて、そこにまたその一瞬しか登場しないカップルが強烈なひっかかりを残すほど鮮烈なキスをしているのか。手紙をまわしている教室のなかの出来事とはいっさいの繋がりを欠いているように見える。しかし、終わってみればそれらもこの映画において度々繰り返される「目撃」という出来事の一つであることがわかる。
最初の教室の視線劇に代表されるように、見ている者は、それが誰で、誰に向かって視線をおくっているのか、どういう関係にあるのか、まなざしの乱反射するこの学園内の様相をつぶさに追うことになる。そのことが結果、気持ちを浮き立たせるし、映画の流れを程よく駆動させてもいる。実際、顔と視線を追っているだけでも楽しいのだ。およそ多感な年齢の者たちが集まるこの“秘密の花園”という設定は、しかしカフェや映画館、公園といった外部世界との接続があることで、この映画を窮屈な重苦しさから解放している(映画は学園の正門を開放するところからはじまる)。登場人物たちはみな、どこかに視線を向けている、何かに注意を払っている。ちょうどカフェのママさんが女の子にぶつかったコックの姿を見逃さないように。主役のルイ・ガレルとレア・セイドゥー、二人の魅力はこの映画の重要で主要なファクターだが、一方で脇役や名もなき端役の隅々にまでさりげなく光が当たっていることもやはりこの映画の魅力の一つとして覚えておきたい。学校で写真を撮っている男子学生、被写体は“美しいひと”ジュニー(レア・セイドゥー)、その真剣な撮影風景の後ろでちょっかいを出すキャメラマンの恋人とおぼしきジャンヌ。(→それを見て笑うジュニー、→笑いをとめてジュニーの髪型をなおすキャメラを持った男、→しびれを切らして通行を許可するアンリ→…と何とも軽やかで楽しい流れ) あるいはカフェの様子。一日入りびたる男のさり気ないまなざしや表情、マダムのいつもながらの配慮、10年程前の“クレーヴの奥方キアラ・マストロヤンニの微笑み。そういった表情がいたるところで顔をのぞかせ、それぞれ柔らかい印象をのこしている。

それにしても素晴らしいのはルイ・ガレルの悩ましげな面持ちである。イタリア旅行にかける真剣な態度と見せかけた彼の思惑は、さりげなさを装いながら、なおも内なる情念を掻き消せずに言葉として出てしまう「いとこを誘えよ」
これをケーリー・グラントがやったならば、その魂胆がもっと分かり易い形で出てしまう表情をするでしょうよ(そしてイタリア旅行は実現してしまうよ)。レオーがやっても、おとぼけの表情の中に魂胆が透ける。マチューだとどうか…。(実際にはどれも細かく想像がつかないのだけれど) 軽妙で人懐っこいルイ・ガレルが面倒見よいモテモテの教師役、というのは既に設定上の勝利である。
両手を交差させて顔を覆っても彼は彼だ。髪の毛がちょっと映っているだけでもルイ・ガレル、後頭部でもルイ・ガレル、しまいには教室にいることがわかれば映ってなくてもルイ・ガレル、なぜ彼が画面にみなぎっているかは一目瞭然、片手でも映っていたときにはいつも常にジュニーに気を配っているように見えたからだ(彼の手や指の動きも特徴的だ)。だからレア・セイドゥーが映るとき、どこかで僕はヌムール(ルイ・ガレル)のまなざしで彼女を見てしまうのだった。

はじめ彼らグループ一味が授業をサボってカフェに行くときの、皆で柱に寄り添って隠れているシーンがとても印象的。それからジュニーは腕をつかまれて皆と一緒に階段をおりていく。
もともとの原案であるラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』にも言えることだが、この映画は「情事の目撃」譚としてみることができる。目撃ということに関すれば、彼らが映画館でみる映画でも展開されているのは「情事の目撃」だ。学園のなかで彼らの行動は常に誰かに目撃されている。「いずれバレてしまうことだ」 そんな中で唯一、目撃されない方法とは何か? それは他者のメッセージの中に、あるいは他者の物語を介して、自分の真意を含みこませる、ということだろう。そもそも「作品」がもつ効力として、ときに他者と言葉を媒介にコミュニケートするより多くを伝えられるということがある。ヌムールのまなざしや身振りはすでにジュニーをあらゆる角度から愛でていたけれども、イタリア語の歌詞を読ませるというのは“必殺技”、しかしそこで歌詞を読みながらみせるジュニーの不敵な笑いこそ“必殺”、なのだった。

ジュニーは言う。「普通の人間同士の恋愛はいつまで続くの?」愛に永遠などなく、それは期間限定のものだと。はっきり言ってしまえば、それは事実だろう。恋愛とは——想像の産物だ。しかしフィクションを信じる力は、それを介して普通の人間同士を繋ぐのだ。「作品」とそれを信じる人間が消えない限り、それらを介した交感は永久に反復される。「ランメルモールのルチア」のオペラ、図書館にいた美人教師の過去、マチアスの手紙、カフェのマダムがジュークボックスで流してくれたアラン・バリエールの“Elle etait si jolie”、そしてクレーヴの奥方。ジュニーはすでにさまざまな作品と共振し、涙を流した。彼女の最後の船出はすがすがしい。劇場でも見たかったな。

『あの夏の子供たち』といくつもの言葉たち

1954年の『フレンチ・カンカン』という映画で、ムーラン・ルージュでの踊りの本番直前、男が他の女性にちょっかいを出したことに拗ねた踊り子のニニが楽屋に閉じこもってしまう。そこでルノワールは、経営者のその男(ジャン・ギャバン)にこう言わせる。

「俺にスリッパを履かせる気か!?」

どんな強行手段に出られたって自分はこういう生活形態でしか生きていけない。人生を謳歌したけりゃ他を当たれ、と。現代。テレ-コミュニケーションの発達とモバイルな公/私生活環境は、ほとんど誰を当たってもそういう生活形態にしてしまっている。みんなスリッパ片手にケータイ履いて、自分のチグハグさに笑ってしまうのだった。けれどそれでも世界は/映画はルノワールの頃と何にも変わらないまま美しい光につつまれた表情をみせてくれる。『夏時間の庭』や『あの夏の子供たち』の、緑と陽光を帯びた世界や、笑ったり泣いたりの表情をみていると本当にそう思う。映画のことは大好きだ。そうやって世界も肯定したい。“Que sera sera” 大いなる肯定。

『あの夏の子供たち』を見ているあいだ、実にたくさんの言葉を思い出した。昨年『TOCHKA』という映画を監督した松村浩行は、あるインタビュー*1に、映画を撮る理由は、ひとつには一番楽しいから。そして一番辛い。その相反するふたつが共存するのが僕にとって映画なんです、と答えていた。

それと、どんなに否定的なものに関わらざるを得ないときにでも、映画には肯定することができるんです。人がいる、鳥が鳴いている。そういうことを、言葉を越えて肯定できるのは僕にとっては映画なんです。

それから『クリスマス・ストーリー』の監督アルノー・デプレシャンは、今年のフランス映画祭で来日し「映画では雪が降るだけで魔法になるんだ。それは子供にだって分かることなんだ。」という素晴らしい言葉を残していってくれたそうだ。フランス映画祭には行けなかったが、twitter上でそのことを知った。私はちょうどフランス映画祭が開催されている頃、金沢にいて、『ユキとニナ』という映画をフランスの俳優イポリット・ジラルドと共同監督した諏訪敦彦が講師を勤める「こども映画教室」というワークショップに参加していた。その現場でも私たちは、全力で走っているだけで簡単に映画からはみ出していってしまう魅力をもった子供たちに圧倒された。鳥が鳴いている、雪が降る、子供たちが走っている、たったそれだけのことで、いったい何が起きて私たちは感動してしまうのだろう。
映画作りにはきっと自在でない自由がある。それは複数の自由の点在とでもいうべきもので、俳優や自然や子供や物あらゆるものの中に秘められている自由であり、そんな世界の在り方のなかで、監督やスタッフ、役者たちはそっとそれに方向(direction)をつけてみようとしたり、演出や即興に向けての準備をしながら映画におまじないをかけようとするのだろう。
ムッシュ・シネマ」の中で諏訪監督はこのように語っている。*2

映画は世界を創造するのではなく、ただ発見するのである。映画=キャメラは世界を個人の世界観にねじ伏せるよりも、受け入れる事に長けている。映画には作者のコントロールを越えた「世界」が侵入してくるし、作為を越えた思わぬ出来事や、構築された意味や物語からはみ出してしまう何かが映り込んでしまう。「ユキとニナ」において、ユキを演じたノエ・サンピの顔立ちは、当然私たちが創造したものではなくただ映っているに過ぎないが、その彼女の顔そのものがこの作品では重要な映画の内容でもある。

同様のことは『あの夏の子供たち』の監督ミア自身も、映画について、子供たちについてnobodyのインタビュー*3の中(すべて引用したい勢いだけれども、リンク先に飛んでください)でも答えてくれている。これらは現代映画のある種の傾向なのではなく、かねてから映画のひとつのあり方として魅力としてずっと目指されてきたものではあるけれども、今も昔も未体験の人にはなかなか伝えづらいものだ。けれどもほんの少しでも興味を持ってくれる人にはどうにか口説いてみようと思うし、シネマの魅力に取り憑かれた者たちと遺されたシネマ/これからのシネマについて盛り上げていきたいし、これからもブラーボと叫んでいきたい。『あの夏の子供たち』は、映画内映画であること、映画をめぐるテーマであることを、1ミリも語らなくてもその魅力を語れるような映画であると思っているけれども、でも私にとって、父グレゴワールが「映画の権利は売らない。全てが水の泡になる。」とぼそっと助手に答える、彼のめまぐるしさに引き裂かれてもなお動かすことのできない動機の根っこの部分にある“映画が好きなんだ”という言葉なき告白にどうしようもなく涙してしまう映画でもあるのだ。グレゴワールなき後、かわりにオフィスにきた妻シルヴィアが「夫はあの映画を完成させたがっていた。」と言ったときのその“完成”という言葉に不意に『抱擁のかけら』の台詞「映画は完成させないと。たとえ手探りでも」がフラッシュバックし、折り重なってきてしまって涙を止めることが出来なかった。

映画のなかでいくつもの印象に残る好きなシーンがあるのだけれど、停電の夜、蝋燭をつけ、外に出て星空を見上げるところはとても好きだ。一生懸命に話している途中で急に停電になる。闇に浮かび上がる彼女たちの“表情”が、ただただ美しい。それに見上げられた星座にはどうしても父の“表情”を感じとってしまう。彼女たちを照らしている灯りと、星までの距離はとてもとても遠いものだけれど、しかし一つの星とその隣の星も同じくらい遠いはずで、それらが見上げられた画面いっぱいにコンパクトに収まって隣並んでいる。この終始アンビバレントな距離感。いるんだけどいないような、いなくなったんだけどすぐ近くにいてくれるような。まるで“ケータイ人間”の世界との近しさ、同じ部屋にいる人をときに寂しくさせてしまうような遠さ。グレゴワールみたいだ。
それからグレゴワールの親友セルジュ(エリック・エルモスニーノ)も良かった。街角で別れる二人の友のさりげない抱擁のシーン。このシーン一つで、二人の関係性や付き合いの長さが伝わってくるようで、また『8月の終わり、9月の初め』のことを思い出したりもして印象的だった。それと前半のめまぐるしくどこに行ってもグレゴワールかその助手か、あるいは子供たちか、誰かの身体がつねに動き続けて変わる画面でグリグリとキャメラがそれを追いかけて回る慌ただしさの分、一方でていねいに追われたグレゴワールと妻との手をつなぐシーンや、朝、次女と父親がじゃれあって遊ぶところ、長女が窓の外を見て佇む光景、4人の女たちが並んで川縁を歩くところなど、それらには対照的にゆっくりとした時間の流れが感じられて、愛おしい気分になった。これだけでも魔法なんだ。まだまだ何度も見たい映画*4名画座2番館や地方上映、何年後かの特集上映にも乞うご期待!! もちろんミアのこの先の映画にも。
“Que sera sera”

わたしは少女のとき、ママに聞きました

美しい娘になれるでしょうか?

ケ・セラ・セラ

なるようになるわ

先のことなど分からない

分からない

ケ・セラ・セラ  (「ケ・セラ・セラ」より)


あの夏の子供たちオフィシャルサイト*5

*1:nobody32:112〜115頁

*2:http://www.k-hosaka.com/nonbook/suwa.html

*3:http://www.nobodymag.com/interview/mia/index2.html

*4:この映画をめぐる言説はどれも好きなものばかりなのだけど、黒岩幹子さんのこの文章にも感激。 http://www.nobodymag.com/interview/mia/index3.html

*5:http://www.anonatsu.jp/index.html

倫敦から来た男

画面外(物語世界の外)のサウンドと思われていたものが、ぐるりと動くフレームのなかにその演奏する者を映し込む、突如 物語世界の内部の音楽へとリンクする、という演出は、ホウ・シャオシェンの『百年恋歌』で体験したことがある。『倫敦から来た男』にも同様の演出が見られる。
しかし『百年恋歌』の場面が、その刹那にぎゅっと感情を揺さぶられる劇的な転句であったのに対し、『倫敦から来た男』でのそれは、単なる演奏団(サーカス団)の登場という以外にことさらな印象を受けない。もちろん、それは何も劇的な場面だけに用意される仕掛けではないわけだけれども、『倫敦から来た男』は全体として、劇的瞬間をはじめから周到に排している、と思えてならない。映像や物語を凌ぐような、何らかの生起する出来事/事件が入りこむ余地のない、隙間のない映像。テイクを重ねたかまではわからないが、モリソン刑事の目のひきつりや 妻ティルダ・スウィントンの唇の震えさえ何ら逸脱した動きには感じられない。物語は終盤、刑事の前にマロワンとブラウンの妻を並べて裁きをくだす、そんな戦慄の局面さえ平然と処してしまう。途方もない絶望的な瞬間とは、ただそのようなものなのかも知れない。しかし映画はこれほどまでにスタティックでよいのか。このことについて長らく考えさせられた。

タル・ベーラの作品はそのような情動で涙する、一連の流れのなかから不意にハッとするような映画的瞬間から距離を置いている。きっと『シーリーン』で女性たちが見ていた映画は、このようなアプローチで撮られた作品ではなかっただろう。(ハリウッドモンタージュであったかもわからないが…) 数えられるほどのカット数のなか、それらのシークエンスを繋ぐのは電球や深緑色のスープのアップなど、静物静物によってである。近年「顔」の映画——顔と顔で繋がれる映画の何本もの傑作を続々と目の当たりにした後での この不動の物体のアップはいまや際立って見える。
このような静けさのなかで、マロワンの食卓に響く時計のポクンポクンという音、路地裏のサッカー少年のボール、カフェに響くビリヤードの音、それらが鉄道操縦の操作棒を握るマロワンの焦燥とともに速まっていく。些細なことから日常に響いていた音が狂わされる、モリソン刑事の鋭い眼光と研ぎ澄まされた感覚に、それらがもっと“キリキリ”と伝わってきていいはずのものとも思うけれども、どうも何か感情の締めつけや揺らぎに至らない。そんななかでもずっと印象に残り続けたのは、常にまわりの天体に突き動かされるマロワンの娘、アンリエットだった。倫敦から来た男によってもたらされた出来事、それによってゆっくりと回り出すこの映画の天体のなかで、彼女はビリヤード台の球のように舞い踊らされる。窓をしめて光を遮る彼女と、仕方なくスープを飲むシーンが、ひっそりといまだ後を引く。しかし…。

『倫敦から来た男』には「〜がやってくる」という運動によって凌駕される“何か”がない。『ヴェルクマイスター・ハーモニー』には、冒頭から主人公がやってくる/去って行く、巨大な鯨がやってくる、群衆がやってくる、これらのゆるやかなリズムが連動している。とりわけ鯨の入っていると思われるブラックボックスが押し寄せてくる ひと繋ぎのシーンの巨大さ、懐の深さは、それがサイズとしては他を圧倒し、はみ出しているにもかかわらず、リズムとしては冒頭の天体運動と同じ速度でゆったりと進んでくる。それらがなだらかに胸をざわめかせる。カットを割らずに歴史まで跨いでしまうアンゲロプロスの映画にだって、〜やってくる/去って行く、行進する、闊歩する運動はふんだんにある。『イタリア旅行』(ロッセリーニ)の二人の物語は、最後にパレードという(まるで)物語外の世界からやってきた出来事に巻き込まれたのではなかったか。生起する(take place)という言葉は、凄まじい言葉だと思うけれども、映画にはその言葉のようにコントロールの極限で審美性からの逸脱*1を垣間みせる瞬間がある。タル・ベーラのもつモノクロの世界とは、全く異なる、これはカラーだけれども、『ヨーロッパ2005年、10月27日』(ストローブ=ユイレ)の5テイクには、花びらが時おり光を乱反射させながら舞い落ちる瞬間がある、また全編そのような“予感”に満ち満ちている。あるいは『エルミタージュ幻想』(ソクーロフ)、90分ワンカットのなかには常に高揚感がある。『倫敦から来た男』の冒頭の長い長い場面と、後半のモリソン刑事がマロワンの職場室内を取り調べる前のその反復の映像、そこには美しさはあっても、その裏窓的構図と距離からは何かがやってくるという慄きはない。(一方の『裏窓』には、その“戦慄”、“予感”が常にある)

結局、その二回目の反復の場面の後半、俯瞰していたキャメラが室内をとらえたとき、そこにヌッと/スッとモリソン刑事が現れる、そこに驚けなかった。実はタル・ベーラ長回しには、この最終的にヌッと/スッと現れる「目撃者」というのが要なんだろうとは思った。たとえば『ヴェルク〜』における群衆の行進から暴動にいたるまでの長回しの最後、壁をぐるりと回ってキャメラが最終的にとらえたのは、主人公の青年がそれを目の当たりにしたという姿だった。あるいは『倫敦から来た男』の中盤、カフェでモリソン刑事とブラウンが会話している、それらのやりとりが終わった後に別のテーブルでチェスをしている男の背中から正面にぐるりとキャメラが回ると、そこに話を聞き入っていたマロワンの姿がある。このようなロングテイクの後「目撃者」をフレーム内に持って来るという必殺技に驚けないのは、そのようなことの視覚的効果に私がまだ鈍感なのかもしれない。しかし『ヴェルク〜』が素晴らしかったと思うのは、そういった「目撃者」の不意の登場にハッとする、という劇的な体験ではなくて、やっぱりあの冒頭から始まる天体運動のおおらかなリズムがそのまま巨大な鯨の存在/不在とともに最後まで伸びて行く心地よさ、その過程に、ある ゆるやかな感情の充溢が感じられることだ。

『倫敦から来た男』は考えてみればみるほどよく計算されている。モノクロームの設計世界や音響だけでなく、彼らの関係性、マロワンの数少ない行動や表情によって示唆している事柄も多い。しかしあのマロワンの「目撃」から、モリソン刑事の「察知」に至るまでのあいだに散りばめられたシーン、マロワンと妻との衝突、アンリエットの仕事先の主との衝突、ブラウンの妻との小屋の前でのやりとり、これらの唐突な喧騒シーンと急いたリズムに、眼と頭が追いついても身体が追いつかない。操作棒を鳴り響かせるマロワン、彼が焦るまでの過程に、もう少し長く付き添いたかった。ジョルジュ・シムノン ミーツ タル・ベーラ。おそらくあの二度の構築された世界の反復/変転をもってくるには、この映画は短すぎる。