Private Utopia

珈琲はどうしてこうも世界のノイズをすっきり飛ばしてくれるのだろう。頭痛、朧げな視界、気怠さ、腫れぼったい感じ、そういう朝の免疫機能が働き出す前の調子の悪さ全てを、スキッとクリアにしてくれる。落ち着く。果たしていいのか、悪いのか…。

プライベート・ユートピア ここだけの場所
ブリティッシュ・カウンシル・コレクションにみる英国美術の現在
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/now.html
http://www.britishcouncil.jp/private-utopia



ようやく行けた。葉山のロシア・アヴァンギャルドに続いて、今年2個目のユートピア展。ステーション・ギャラリーの階を降りるにつれて、どんどん面白くなってった印象。《ごあいさつ》での、「ユートピア」の定義付けが秀逸。utopia=nowhere、あるいはつまりユビキタスなんだと思う。目新しくはないけれど、さらっと的を得た良いくくり。システムやパフォーマンスの在り方そのものを「問う」よりも「遊ぶ」ものが多くて、それが色んな地域や時代性に結びついてる。吉田戦車が悔しがりそうな作品多し。楽しい。デッド・ワンちゃんを実際に前にしてみると、皮肉より前に可笑しさが込み上げてくる。そんなシュリグリーの作品で彩られた空間も面白かったけど、今回一番のお気に入りはアダム・チョズコの〈ナイト・シフト(夜勤)〉。この愛すべきタイトルは、ナンセンスをメイクセンスに変える魔法だった。気ままに夜間警備(?)しているワイルド・アニマルズ。ヘビやカエル、サソリ、ネズミにオオカミ(蛇・蛙・蠍・鼠・狼)、彼らの佇まいが何とも。夜行パレードの彼らの通り道(うろついてる…)が、案内図に色分けされて示されていた。実際のアートフェアの時の会場を見てみたかったな。
一番長くいた部屋で、メトロノーム(形状は壁に青い火炎センサーのようなもの)が3つ、それぞれスピードを変えてずっと鳴っていた。最初はノイズにしか聞こえなかったが、段々と音が“何か(something)”を作り出す時間がやってくる。マーティン・クリードの作品。そこには楽しい、居心地のよい時空がひらけていた。さまざまな場所にいながらも、家にいるようにいたい、そう願う気持ちが「哲学」(思索)なのだと。18世紀ドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリスは言いましたが、ここではそれを「プライベート・ユートピア」と置き換えても良いかも知れない。そんなことを思いながらネオンの光る駅の方へ。



Blur - Good Song]
↑のアニメーションもデイヴィッド・シュリグリー。ガーディアン誌の連載なども手がけているそう。今回つくづく思い知ったこと。私は相変わらずこういう小さな皮肉とユーモアが好きなんだ…。いろいろ卒業できてない気がする。


旅するコレクション用の特製の木箱。ブリティッシュ・カウンシルのコレクションは、特定の展示施設を持たないそうな。

PSHのいない世界

青天の霹靂。

青い。いい写真だ。


かつての東宝映画にギューちゃん(加東大介)がいなかったら、多くの作品が大変なことになるけど。ハリウッドも頭を抱えてるんじゃなかろうか。大きく揺れ動く身体と小刻みに震える金髪が脳裡に浮かぶ。

バウスのハル・ハートリー特集、私が行った回には20代の学生らしき人がポツポツいました。『アンビリーバブル・トゥルース』、平日の夜。エイドリアン・シェリーもロバート・バークもいい顔してる。オードリーのお父さんと元カレ君のド突き合いがコミカルで、上の写真のフィリップ・シーモア・ホフマンジョン・C・ライリーのようだった。帰り道に久々の井の頭線で渋谷TSUTAYAへ。すごい!!増村の『曽根崎心中』が!!3本とも全部借りられている!!…としばらく見ていたら、ひょいっと店員さんが目の前に戻ってきたものを差し込んでくれたのでレンタルできた(笑)
そして開始10秒で予告編の不安が払拭されたジェームズ・グレイ×ホアキンの『エヴァの告白』が、あまりに良くて溜め息で耳の穴の奥まで震えて…。全身全霊で味わって打ちのめされ、これぞ究極のド突き合いや言うもんを目の当たりにして来た。JG作品の色んなことを垣間みた気がして、すぐさま『Two Lovers』を見返したくなる。映画ってこんなことも出来るんだ、という新鮮な気持ちに立ち返りました。また改めて書くとして。今年は『ビフォア・ミッドナイト』と『エヴァの告白』を大切に、まだまだ噛み締めながら暮らします。それにしても…男性のTwinもので、こんなにも妖艶な物語が生まれようとは。ブロンド/ブルネットの女性やなくて、ホアキンと目キラッキラのジェレミー・レナーやのに……。

Happy Valentine’s Day. I love you.

http://www.hrc.org/files/assets/resources/Ellen-Page-Remarks.pdf

エレン・ペイジのファンとして、
2014年のバレンタインのスピーチの事を忘れません。
動画を見ながら、一挙手一投足を見守るように震える声を聴いた。
Here I am. 大切なことを真摯に人から伝えてもらうことは、
それだけで感動的だし嬉しいことだし。。。



ローラーガールズ・ダイアリー』(Whip It)のエンドロールの手前には人物紹介&NG集が収められていて、最後にエレン・ペイジが歌う。どういうシチュエーションから拾ったのかわからないんだけど、エレン・ペイジとして、緊張して震えた声で歌う。スピーチではそれ以上に緊張で震えた声だったけれど、それでも最後まではっきりと、力強い、素晴らしい内容のスピーチだった。今でもエレン・ペイジ演じるブリスの“Are you stalking me?”のモノマネをよくするよ。あの台詞が大好きなので。ちょとだけ裏返った声。あの状況であの台詞。ああいう風に緊張する場面は乗り切りたいものだなと。いつでもエレン・ペイジはそうやってうまく場を切り開いて行く。平生を装いながら、緊張の面持ちで。twitterの@Ellen Pageアカウントのプロフィール欄には昔から「I am a tiny Canadian.」とある。これからも変わらず応援し続けるよエレン!
Happy Valentine’s Day. I love you too!!

バウス

「お竜さん。雪が綺麗ですね。だがあっしの国の若狭じゃ、冬中この雪に降り込められて、暗い家のなかで暮らしてますよ」
…というわけで『緋牡丹博徒 花札勝負』の健さん藤純子
雪、いろいろありますわな。


http://www.cinra.net/news/gallery/43992/0/

バウス閉館か〜。吉祥寺まで一直線。あっちまで行って戻ってくる。まるで大昔にやったRPGのHP回復の泉(セーブポイント?)に行くような感覚でいつも通ってたな。渋谷時代、仕事が終わって井の頭線で真っすぐ吉祥寺駅まで行くでしょ、そこからまた真っすぐ商店街を歩いてバウスシアター行くでしょ、それでチケット先に買って上映までの時間を持て余す。ウロウロ見て回ったり、コーヒー頼んで、読みたいもの読んで時間を待ったり。あんまり時間がない時はモス待機(冬はね)。爆音のイベントの時なんかは30分前になると段々と外がにぎやかな感じがしてきて、それで階段上って開場前のあの広場。他の映画館の特集上映や映画祭で、上映前に友人・知人に会うのは、まだ外ではメガネもかけてなくて大概見えてないしでいつも苦手なんだけど、バウスのあの広場だけ楽しいと思えるのは何故なんだろう。にぎやかで楽しい空間だなと、その一部であることに身を任せることが出来た。『TOCHKA』爆音上映の時なんかの楽しい雰囲気の記憶が残ってるからかな。それから篠崎誠監督の『殺しのはらわた』&『留守番ビデオ』(篠原ともえ出演)の爆音“はらわた”ナイト。『留守番ビデオ』はインターホンやテーブルの物音が爆音で…上映中に誰かこの機材に殺されるわ(ショック死で)と思ってソワソワしたの覚えてる。爆音レイト上映後のトークは、時に帰るか帰れないかの瀬戸際の時間まで続く。そして客席とステージが「いいよ、続けようよ!」みたいな空気になって結局寸でのところで終わって電車に間に合う。嗚呼。バウスシアターは行きも帰りも上映もトークも持て余した時間も含めていつもバウスシアターなんだよな。帰り際、店の閉まった商店街の中を歩きながら映画を見終わった人たちが駅へと急ぐ。頭の中に今見た映画のことを考えながら静かに闊歩滑歩。あそこでジーン・ケリーのように唄って踊り出す人はいない。いないけれど、そういう想像をしたことのある人は一人や二人じゃないと思う。レイト後の、静けさ。今も閉まってる店ばっかり思い浮かぶ。それから平日の夜の井の頭線だよ。乗客は何であんな皆くたびれてたんだろう(笑)遠方組にとっては、空いてて座ることが出来るのは井の頭線まで。でも立って乗ってた。あの異様な空間であんな時間に力みなぎってるのは、映画見た後だからなのかもなと今にして思う。まだまだくたびれないように、またバウスに行くよ。5月末の私が30になる日まで同い年のバウスはやってるらしい。

1989年発行の『ミニシアターをよろしく』(稲葉まり子・大高宏雄 編著)には、バウスシアターのことも書いてある。当時の仕掛人(支配人)のインタビューなんかも載っている。吉祥寺バウスシアターは、吉祥寺ムサシノ映画劇場跡を改装し、大きなスクリーンのあった劇場を分けて「バウスシアター」と「ジャヴ50」という名の2館を併設。1984年の3月に改装オープン。シネマスクエアとうきゅうやシネ・ヴィヴァン六本木、ユーロスペースが単館ロードショー館として産声をあげ、フランス映画社の配給作品が次々とヒットを飛ばしていたミニシアター全盛の時代と時は重なる。都内のミニシアターにおける《レイトショー》興行の定着は、85年『ストップ・メイキング・センス』の大ヒットから始まる。公式には渋谷ジョイシネマでの8月からが初公開となっているが、どうもバウス当時の支配人の話によると、その一ヶ月前のまだ劇場受け入れ先がどこにも決まらなかった頃、若いスタッフの“熱望”もあって、バウスでプレミア上映しているらしい。一ヶ月間だけ。それが吉祥寺バウスシアターで一番の興収(89年の時点)となる。ここからバウスの特色は爆音上映まで一直線だ。もともとの機材や空間、経営者の気質もあるだろうけれど、そこに熱意あってこその、受け入れる空間やそれを良しとしてくれる人だと思う。
私は閉館・閉店や廃刊のニュースに、「行かなかったからだ」と後悔するのも、「今さら悲しんだって遅い」と憤るのも好きではない。それを悲しいと思える者同志が愛情の度合いをはかって、負の連鎖を続けて意味のあることなんか一つもない。ミニシアターが潰れるというのは、誰かの怠惰や失敗だけが招けるもんじゃないよねといつも思う。大きなことで悲しいことだけど、きっちり振り返っておく。かつて何の気なしに時間を重ねた場所は、染みるように後々の記憶に押し寄せてくる。大学の図書館とか実家の近所の散歩道とか。そういう意味ではバウスのあの直線道のちょっとしたお出掛け感、いつも中途半端に持て余していた時間、見ることの出来たたくさんの映画は着実に今の私を作ってくれたと思う。

工事中

今日はDVDでホセ・ルイス・ゲリンの『工事中』を見た。

ほぼフィックス、18ヶ月の撮影で120時間以上のフッテージとあって、いつもの“風”や踊る身体、急激な変動は少なめだが、それだけにラストのカップルがおぶって歩くシーンが実に素晴らしい。最後に光と風の中、素敵な展開をみせてくれる。

解説リーフレットによれば、本作は1998年7月1日から12月25日まで行われたラバル地区の旧集合住宅の解体と高級住宅の建設過程を中心に、そこで生活する人々、現場作業をする人々の日常を追ったもの。バルセロナのラバル地区は、かつて麻薬密売人や売春婦の集まるスラムだったが、92年のオリンピック開催を機に都市化が進む。文化センターや現代美術館、博物館が開館し、それまでの雰囲気を一掃。

バルセロナはいつも天気が良くて過ごしやすそう。彼らが建物の窓や吹き抜けから見ている階下の景色、建物の全景が、こちらからはほとんど見えない。工事中も食事中も、建物の全体的な変化はあんまり分からない。
古代の遺跡(骸骨)が発掘された時も、今度は反対に彼らが(作業現場である)キャメラのほうを上から眺めて会話していて、全体は映らないんだよね。通りかがりの人たちが話すことはいちいち面白い。時おり、建物のいる場所と同じくらいの高さの、向かいの住人は映る。向かいにいる赤児をあやしてみたり、反対に子供がおっちゃんに呼びかけたり、引っ越す女の子に「ここに君がいないなんて寂しいよ」と話しかける現場作業員との会話はどれも美しい。なるほど彼らの表情や話している会話と、あとは聞こえてくる音だけで“外”は充分豊かに想像できる。街の音、工事の音、泣き声に鳴き声、遊んでる声。それだけで充分に。
工事も進み、後半には新しく家を買いにきて住む予定の人たちがやってくる。「バルコニーはあるの?」、「ちょっと狭いけどここから日光浴はできないこともない」、「どんな人が隣になるかも大事よね」という会話から、ようやく理解する。ああ彼らも、ここにこれから広がる新しい景色と生活、隣人たちを想像している段階なんだなと。そう、これは「工事中」。

当時のニュースでは、外観しか取り上げなかったことだろう。声を発するのも主に新設の建物に関わる人たち。『工事中』ではそこから漏れる人々、市井の声を丁寧に拾う。「雪を見るのは初めてか?」と尋ねられ、たいして感動している様子もなく、「はい」と答えるモロッコ出身のレンガ積み工。彼が現場の仲間にする質問と“間”が好きだな。
時事の事柄に関する繋がりで言えば、おそらく私たちには時おり聞こえたラジオとあの夜の花火だけで充分だったろう。20世紀の最後を祝して打ち上げられた花火。あれは私たちもかつて同じ時間に見上げたものだから。


maplecat-eveの日記『工事中』(ホセ・ルイス・ゲリン/2001)
http://d.hatena.ne.jp/maplecat-eve/20090308


そうそう、宮代くんの日記を読み返して思い出した。一番最初、この街の記録フィルム(モノクロ)から始まってたんだった。唯一この街の全貌を見渡せる、“外”に広がったかつての世界。そうか、ラストシーンで取り壊された建物を出て行くカップルの長いトラッキング撮影は、“ココ”へ出たのか。21世紀の始まりに。

吹雪

関東の寒さは乾燥も相俟って引き裂かれるような、引きちぎれるような痛い寒さ。北風小僧の寒太郎。なのに今年はわりと雪が降る日が多いのもあって湿気がある。湿度があるほうが何となく暖かい。それでもさすがに気温が下がってくると今度は手袋の先がじんじんと来る、あの凍てつく寒さ。バイクに乗るときは手袋を二重にしているのに、指先がじんじんするとは…何とも懐かしい寒さだ。しかし、何じゃね今日の吹雪は。だいたい昨日から雪降る降ると言われてたのに、バイクでないと行けない距離の最寄りTSUTAYAで前日に一泊二日のDVDを借りて来た私は何じゃね、いったい。部屋ごもりになることまでは分かっていたんだけど、心のどこかで夜には晴れるだろうと思ってたらしい…途方に暮れる。


それで結局、借りてきたもの見るんでなく。
今日見たのはアンソニー・マンの『高い標的』(1951年)
アンソニー・マン版『バルカン超特急』みたいな作品。高い標的(The Tall Target)とはリンカーン大統領のこと。リンカーンの暗殺計画を未然に阻止しようとするのが、ジョン・ケネディ刑事。ってもう混乱するような名前。ケネディ刑事役のディック・パウエルがね、ここではもう後のウォルター・マッソーへと連なるような顔つきしてましてエエんですわ。常にしかめっ面。言葉少な。シンプルな芝居。スピーディ。彼が熟練で、何を究明しようとし、見つけたもので咄嗟に何を判断したのか、コンマ1秒でこちらにも伝わってきます。列車ん中もとことんイヤーな奴、恐怖顔ばっかりで、泥まみれのケネディにもう「くっくっ」と歯食いしばりながら見たよ。いい映画だった。色々と思い返したいところだけど、今日はこの辺で。明日、家の扉開きますように。

旅の記録


デザイン:小笠原正勝 http://www.ogasawara-design.jp/anthology/antho-d.html

ギリシャの町を 海を 村を 山を
歌い踊ってゆく旅芸人たち
エレクトラが オレステスが 旅芸人となって
愛と復讐のドラマに蘇り 現代を記録してゆく

文字を選んで、言葉を選んで、
色を選んで、彩りを決めて、
写真を上にも下にも両方使うレイアウト。

あらためて、このポスターに感動中。
あと、懐かしのナレーションにも。
http://www.youtube.com/watch?v=hekXtro6ITg

旅芸人の記録』って、あのちょいと入り組んだ物語の時間軸を簡潔に紹介しようとすると躓く。チラシの紹介文書くの難しい。上のフレーズは、完璧。


ビフォア・ミッドナイト』公式サイト
http://beforemidnight-jp.com/main.html

今日から『ビフォア・ミッドナイト』が始まるってね。9年ごとに続編が作られるという、その事自体が祝福したくなる時間の経過の話なので、もう公開前から皆が浮かれるのしょうがない。ジェシーセリーヌと、忘れられない一日と、沢山のストリームスと、映画と。ともに時を重ねてきて、それを祝福したくなる気持ちしょうがない。これはもうしょうがない。映画館に通う一日の行動は、それ自体がすでに「期待と失意の現実的な在り方/有り様」を示す体験だよね。あの二人の気持ちの在り方、時間の流れ方は、それによく似ているんだと思う。


今度の舞台はギリシャだよ。本当どうなるか楽しみだ。アンゲロプロスの『永遠と一日』で、バスに同乗した詩人に問いかける「明日の長さは?」に、もし彼らなら何と答えるだろうか。いつまでもビフォアが延びていきますように。