バウス

「お竜さん。雪が綺麗ですね。だがあっしの国の若狭じゃ、冬中この雪に降り込められて、暗い家のなかで暮らしてますよ」
…というわけで『緋牡丹博徒 花札勝負』の健さん藤純子
雪、いろいろありますわな。


http://www.cinra.net/news/gallery/43992/0/

バウス閉館か〜。吉祥寺まで一直線。あっちまで行って戻ってくる。まるで大昔にやったRPGのHP回復の泉(セーブポイント?)に行くような感覚でいつも通ってたな。渋谷時代、仕事が終わって井の頭線で真っすぐ吉祥寺駅まで行くでしょ、そこからまた真っすぐ商店街を歩いてバウスシアター行くでしょ、それでチケット先に買って上映までの時間を持て余す。ウロウロ見て回ったり、コーヒー頼んで、読みたいもの読んで時間を待ったり。あんまり時間がない時はモス待機(冬はね)。爆音のイベントの時なんかは30分前になると段々と外がにぎやかな感じがしてきて、それで階段上って開場前のあの広場。他の映画館の特集上映や映画祭で、上映前に友人・知人に会うのは、まだ外ではメガネもかけてなくて大概見えてないしでいつも苦手なんだけど、バウスのあの広場だけ楽しいと思えるのは何故なんだろう。にぎやかで楽しい空間だなと、その一部であることに身を任せることが出来た。『TOCHKA』爆音上映の時なんかの楽しい雰囲気の記憶が残ってるからかな。それから篠崎誠監督の『殺しのはらわた』&『留守番ビデオ』(篠原ともえ出演)の爆音“はらわた”ナイト。『留守番ビデオ』はインターホンやテーブルの物音が爆音で…上映中に誰かこの機材に殺されるわ(ショック死で)と思ってソワソワしたの覚えてる。爆音レイト上映後のトークは、時に帰るか帰れないかの瀬戸際の時間まで続く。そして客席とステージが「いいよ、続けようよ!」みたいな空気になって結局寸でのところで終わって電車に間に合う。嗚呼。バウスシアターは行きも帰りも上映もトークも持て余した時間も含めていつもバウスシアターなんだよな。帰り際、店の閉まった商店街の中を歩きながら映画を見終わった人たちが駅へと急ぐ。頭の中に今見た映画のことを考えながら静かに闊歩滑歩。あそこでジーン・ケリーのように唄って踊り出す人はいない。いないけれど、そういう想像をしたことのある人は一人や二人じゃないと思う。レイト後の、静けさ。今も閉まってる店ばっかり思い浮かぶ。それから平日の夜の井の頭線だよ。乗客は何であんな皆くたびれてたんだろう(笑)遠方組にとっては、空いてて座ることが出来るのは井の頭線まで。でも立って乗ってた。あの異様な空間であんな時間に力みなぎってるのは、映画見た後だからなのかもなと今にして思う。まだまだくたびれないように、またバウスに行くよ。5月末の私が30になる日まで同い年のバウスはやってるらしい。

1989年発行の『ミニシアターをよろしく』(稲葉まり子・大高宏雄 編著)には、バウスシアターのことも書いてある。当時の仕掛人(支配人)のインタビューなんかも載っている。吉祥寺バウスシアターは、吉祥寺ムサシノ映画劇場跡を改装し、大きなスクリーンのあった劇場を分けて「バウスシアター」と「ジャヴ50」という名の2館を併設。1984年の3月に改装オープン。シネマスクエアとうきゅうやシネ・ヴィヴァン六本木、ユーロスペースが単館ロードショー館として産声をあげ、フランス映画社の配給作品が次々とヒットを飛ばしていたミニシアター全盛の時代と時は重なる。都内のミニシアターにおける《レイトショー》興行の定着は、85年『ストップ・メイキング・センス』の大ヒットから始まる。公式には渋谷ジョイシネマでの8月からが初公開となっているが、どうもバウス当時の支配人の話によると、その一ヶ月前のまだ劇場受け入れ先がどこにも決まらなかった頃、若いスタッフの“熱望”もあって、バウスでプレミア上映しているらしい。一ヶ月間だけ。それが吉祥寺バウスシアターで一番の興収(89年の時点)となる。ここからバウスの特色は爆音上映まで一直線だ。もともとの機材や空間、経営者の気質もあるだろうけれど、そこに熱意あってこその、受け入れる空間やそれを良しとしてくれる人だと思う。
私は閉館・閉店や廃刊のニュースに、「行かなかったからだ」と後悔するのも、「今さら悲しんだって遅い」と憤るのも好きではない。それを悲しいと思える者同志が愛情の度合いをはかって、負の連鎖を続けて意味のあることなんか一つもない。ミニシアターが潰れるというのは、誰かの怠惰や失敗だけが招けるもんじゃないよねといつも思う。大きなことで悲しいことだけど、きっちり振り返っておく。かつて何の気なしに時間を重ねた場所は、染みるように後々の記憶に押し寄せてくる。大学の図書館とか実家の近所の散歩道とか。そういう意味ではバウスのあの直線道のちょっとしたお出掛け感、いつも中途半端に持て余していた時間、見ることの出来たたくさんの映画は着実に今の私を作ってくれたと思う。