何も変えてはならない

「音楽は“しっかり”」

「映画は“楽しく”」

「楽しみましょう!!」












音楽は基本楽しく、だから意識を“しっかり”に。演技(映画)は基本しっかりで、だから意識を“楽しく”なのか。暗闇にうっすらと照らされたジャンヌ・バリバールの白い顔は、ジャン=ルイ・バローのようだ。楽園の子供たち。モノクロの彼女はいくつもの古典的な顔立ちを二重三重に重ねているようにも見える。初めてジャンヌ・バリバールと出会ったとき、『そして僕は恋をする』を見たとき、このジャンヌ・バリバールという女性とエマニュエル・ドゥヴォスという女性を直ちに嫌い(マリアンヌ・ドニクールだけちゃっかり除外しているというのが若気の至り)になった。それはデプレシャンのせいでもある。それから数年を経て『キングス&クイーン』を見る。そこではマチューやドゥヴォス、ここに登場する人物たちがみんな愛おしかった。デプレシャンのおかげである。もとい自身の変化のせいである。そんな頃には一緒に登場していないはずのバリバールのことまで気持ちがいつの間にか刷新されていた。わずかながら年齢の経過を感じた。
もちろん映画の登場人物と実際の役者は別の存在である。でも観客はそれを取り違える。映画史の早い段からずっと、そうやって銀幕の向こう側と自分の生活の世界が繋がっているよう信じてきたのだ。果たしてそれはどこまでが取り違えなのだろうか。別の存在でありながら、同一の身体でもあるものの存在。すでにリヴェットやアサイヤス、デプレシャンとの恊働をしてきた彼女は、虚構と現実を連関させるに限りなく適した女優だ。生活の中で身体が物語ること、発話されること、演じること。役を生きること、フィクションのなかにある現実性。それらを行ったり来たり。「現在進行中の作品(work in progress)」を維持し続けること。監督と俳優とのやりとり。バリバールは協働という言葉がよく似合う。彼女はあの微笑みがただ印象的なのではない。ニッと微笑む、あのタイミングが印象的なのだ。その賢さに、憬れる。一方で(これは何ともまぁ偏見ではあるけれども)“パリジェンヌ”である彼女がとりわけ引き立つ場面は、素直に嫌感情やプライドの意識が表情として態度として出てしまうときで、『何も変えてはならない』ではトレーナーと歌のレッスンをする長いワンカットのシーンにおいてである。彼女の顔のアップと歌、トレーナーの声。何度もストップをかけられ歌い直す。この“しっかり”と言われても嫌な顔一つでも二つでもしてしまいそうな、あるいは出来ない自分に対する嫌気であるとも捉えられそうな、キャメラの前でそういった感情をあらわにするのが彼女だ、であるとともにこれは完全にキャメラを前にしているときの彼女だ。この映画ではバリバールが目の前の椅子に腰掛けて(DVDの特典映像などにある監督や俳優インタビューのように)キャメラに向かって話をするといった場面がない。映るのはいつもの映画の中の役を生きる彼女の姿だ。したがってこれはジャンヌ・バリバールの単なるドキュメントではない。彼女が彼女の役を生きるというフィクションとも言えるし、あるいはもはやそれが彼女なのかどうかもよくわからない闇のなかの集団の、timelessでplacelessな空間の映画でもある。
バリバール。バリバールたち。音楽一座。バリバールの歌声に関して。この“選択”はストローブ=ユイレの『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』で、演奏家(しかし演技経験のない素人)のグスタフ・レオンハルトが俳優としてバッハ役を演じたことと似ている。一つには“自主”映画的な精神に満ち満ちていること。もう一つにペドロ・コスタ(やストローブ)がモノラルで録音することに拘ろうとすることと同じく、バリバールのそのたびごとの身体と表情と不安定な歌声、これは決して「分離してはならない」ものなのだろう。終始 彼女が歌い続ける映画であること。これは野心的選択だ。『あなたの微笑みはどこへ隠れたの?』(2001、ペドロ・コスタ)で、しゃべくりまくるストローブが、ここは濃い味付けが必要だという妻ダニエル・ユイレの言葉に導かれて、こんな素敵なことを言う。「スープだ。映画史上の傑作は沢山ある。我々も愛する傑作だ。それはスープがあるからしっかりする。特に音楽や音声ループ等のスープだ。」

コスタの映画は、キャメラペドロ・コスタ)を前にして人は何かを演じる存在であるということを強く意識させる。観客はその現場に立ち会う。さてそれはどこか。 どこかはわからないが、いつなのかはかろうじて、“現在”とだけわかる。楽園の子供たち(『天井桟敷の人々』の原題:Les enfants du Paradis)の末裔であり、ヌーヴェルヴァーグのコドモでもあるジャンヌ・バリバールの口から「ジョニー・ギター」と歌われる。そこに立ち会う。彼女は映画を生きている。そして我々も。“楽しみましょう!!”
暗闇のなかで音楽と会話が入り交じる。四角い窓から光が入る。どこかもわからない。旅のなかに住まうとともに住居のなかを旅する一味。フィックスの、ペドロ・コスタの位置=関係。この穴蔵のなかで時間と場所の感覚を同時に麻痺させながら、私たちは途中 少しだけ光を見て、ある開放感を得る。それはラストシーンよりも、二人の女性が煙草を吸うよりも遥か手前。序盤だ。ワインから始まる。
「開けてあげる、昔レストランで働いてたの」
「給仕もしたのか、難しかったろ」
「そうでもないわ」
この穴蔵に住まう以前の、地上にいた頃の彼女の姿が光に包まれたカラー映像で頭に浮かび上がる。バリバールの実のことであるにもかかわらず、このことはフィクションの想像力を喚起する。ジャームッシュの『ダウン・バイ・ロー』における脱獄の時のように、私たちはふっと暗闇から開放される。





『何も変えてはならない』公式サイト
http://www.cinematrix.jp/nechangerien/