美しいひと

フランス映画祭(2009)では『美しい人』というタイトルであったが、DVDでは『美しいひと』と変更になった、クリストフ・オノレの、前から見たかった作品をようやくDVDにて鑑賞。

結構この映画は唐突な展開を繰り返していると思う。まさかオットーが成功するとは思わなかったよね。これは完全な狙いとも言えるけれど、他にも、突飛なのはエピソードの主軸だけでなく、たとえば何らメインキャラクターでもない人物(教師)が、何で授業中に外をみて、そこにまたその一瞬しか登場しないカップルが強烈なひっかかりを残すほど鮮烈なキスをしているのか。手紙をまわしている教室のなかの出来事とはいっさいの繋がりを欠いているように見える。しかし、終わってみればそれらもこの映画において度々繰り返される「目撃」という出来事の一つであることがわかる。
最初の教室の視線劇に代表されるように、見ている者は、それが誰で、誰に向かって視線をおくっているのか、どういう関係にあるのか、まなざしの乱反射するこの学園内の様相をつぶさに追うことになる。そのことが結果、気持ちを浮き立たせるし、映画の流れを程よく駆動させてもいる。実際、顔と視線を追っているだけでも楽しいのだ。およそ多感な年齢の者たちが集まるこの“秘密の花園”という設定は、しかしカフェや映画館、公園といった外部世界との接続があることで、この映画を窮屈な重苦しさから解放している(映画は学園の正門を開放するところからはじまる)。登場人物たちはみな、どこかに視線を向けている、何かに注意を払っている。ちょうどカフェのママさんが女の子にぶつかったコックの姿を見逃さないように。主役のルイ・ガレルとレア・セイドゥー、二人の魅力はこの映画の重要で主要なファクターだが、一方で脇役や名もなき端役の隅々にまでさりげなく光が当たっていることもやはりこの映画の魅力の一つとして覚えておきたい。学校で写真を撮っている男子学生、被写体は“美しいひと”ジュニー(レア・セイドゥー)、その真剣な撮影風景の後ろでちょっかいを出すキャメラマンの恋人とおぼしきジャンヌ。(→それを見て笑うジュニー、→笑いをとめてジュニーの髪型をなおすキャメラを持った男、→しびれを切らして通行を許可するアンリ→…と何とも軽やかで楽しい流れ) あるいはカフェの様子。一日入りびたる男のさり気ないまなざしや表情、マダムのいつもながらの配慮、10年程前の“クレーヴの奥方キアラ・マストロヤンニの微笑み。そういった表情がいたるところで顔をのぞかせ、それぞれ柔らかい印象をのこしている。

それにしても素晴らしいのはルイ・ガレルの悩ましげな面持ちである。イタリア旅行にかける真剣な態度と見せかけた彼の思惑は、さりげなさを装いながら、なおも内なる情念を掻き消せずに言葉として出てしまう「いとこを誘えよ」
これをケーリー・グラントがやったならば、その魂胆がもっと分かり易い形で出てしまう表情をするでしょうよ(そしてイタリア旅行は実現してしまうよ)。レオーがやっても、おとぼけの表情の中に魂胆が透ける。マチューだとどうか…。(実際にはどれも細かく想像がつかないのだけれど) 軽妙で人懐っこいルイ・ガレルが面倒見よいモテモテの教師役、というのは既に設定上の勝利である。
両手を交差させて顔を覆っても彼は彼だ。髪の毛がちょっと映っているだけでもルイ・ガレル、後頭部でもルイ・ガレル、しまいには教室にいることがわかれば映ってなくてもルイ・ガレル、なぜ彼が画面にみなぎっているかは一目瞭然、片手でも映っていたときにはいつも常にジュニーに気を配っているように見えたからだ(彼の手や指の動きも特徴的だ)。だからレア・セイドゥーが映るとき、どこかで僕はヌムール(ルイ・ガレル)のまなざしで彼女を見てしまうのだった。

はじめ彼らグループ一味が授業をサボってカフェに行くときの、皆で柱に寄り添って隠れているシーンがとても印象的。それからジュニーは腕をつかまれて皆と一緒に階段をおりていく。
もともとの原案であるラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』にも言えることだが、この映画は「情事の目撃」譚としてみることができる。目撃ということに関すれば、彼らが映画館でみる映画でも展開されているのは「情事の目撃」だ。学園のなかで彼らの行動は常に誰かに目撃されている。「いずれバレてしまうことだ」 そんな中で唯一、目撃されない方法とは何か? それは他者のメッセージの中に、あるいは他者の物語を介して、自分の真意を含みこませる、ということだろう。そもそも「作品」がもつ効力として、ときに他者と言葉を媒介にコミュニケートするより多くを伝えられるということがある。ヌムールのまなざしや身振りはすでにジュニーをあらゆる角度から愛でていたけれども、イタリア語の歌詞を読ませるというのは“必殺技”、しかしそこで歌詞を読みながらみせるジュニーの不敵な笑いこそ“必殺”、なのだった。

ジュニーは言う。「普通の人間同士の恋愛はいつまで続くの?」愛に永遠などなく、それは期間限定のものだと。はっきり言ってしまえば、それは事実だろう。恋愛とは——想像の産物だ。しかしフィクションを信じる力は、それを介して普通の人間同士を繋ぐのだ。「作品」とそれを信じる人間が消えない限り、それらを介した交感は永久に反復される。「ランメルモールのルチア」のオペラ、図書館にいた美人教師の過去、マチアスの手紙、カフェのマダムがジュークボックスで流してくれたアラン・バリエールの“Elle etait si jolie”、そしてクレーヴの奥方。ジュニーはすでにさまざまな作品と共振し、涙を流した。彼女の最後の船出はすがすがしい。劇場でも見たかったな。