倫敦から来た男

画面外(物語世界の外)のサウンドと思われていたものが、ぐるりと動くフレームのなかにその演奏する者を映し込む、突如 物語世界の内部の音楽へとリンクする、という演出は、ホウ・シャオシェンの『百年恋歌』で体験したことがある。『倫敦から来た男』にも同様の演出が見られる。
しかし『百年恋歌』の場面が、その刹那にぎゅっと感情を揺さぶられる劇的な転句であったのに対し、『倫敦から来た男』でのそれは、単なる演奏団(サーカス団)の登場という以外にことさらな印象を受けない。もちろん、それは何も劇的な場面だけに用意される仕掛けではないわけだけれども、『倫敦から来た男』は全体として、劇的瞬間をはじめから周到に排している、と思えてならない。映像や物語を凌ぐような、何らかの生起する出来事/事件が入りこむ余地のない、隙間のない映像。テイクを重ねたかまではわからないが、モリソン刑事の目のひきつりや 妻ティルダ・スウィントンの唇の震えさえ何ら逸脱した動きには感じられない。物語は終盤、刑事の前にマロワンとブラウンの妻を並べて裁きをくだす、そんな戦慄の局面さえ平然と処してしまう。途方もない絶望的な瞬間とは、ただそのようなものなのかも知れない。しかし映画はこれほどまでにスタティックでよいのか。このことについて長らく考えさせられた。

タル・ベーラの作品はそのような情動で涙する、一連の流れのなかから不意にハッとするような映画的瞬間から距離を置いている。きっと『シーリーン』で女性たちが見ていた映画は、このようなアプローチで撮られた作品ではなかっただろう。(ハリウッドモンタージュであったかもわからないが…) 数えられるほどのカット数のなか、それらのシークエンスを繋ぐのは電球や深緑色のスープのアップなど、静物静物によってである。近年「顔」の映画——顔と顔で繋がれる映画の何本もの傑作を続々と目の当たりにした後での この不動の物体のアップはいまや際立って見える。
このような静けさのなかで、マロワンの食卓に響く時計のポクンポクンという音、路地裏のサッカー少年のボール、カフェに響くビリヤードの音、それらが鉄道操縦の操作棒を握るマロワンの焦燥とともに速まっていく。些細なことから日常に響いていた音が狂わされる、モリソン刑事の鋭い眼光と研ぎ澄まされた感覚に、それらがもっと“キリキリ”と伝わってきていいはずのものとも思うけれども、どうも何か感情の締めつけや揺らぎに至らない。そんななかでもずっと印象に残り続けたのは、常にまわりの天体に突き動かされるマロワンの娘、アンリエットだった。倫敦から来た男によってもたらされた出来事、それによってゆっくりと回り出すこの映画の天体のなかで、彼女はビリヤード台の球のように舞い踊らされる。窓をしめて光を遮る彼女と、仕方なくスープを飲むシーンが、ひっそりといまだ後を引く。しかし…。

『倫敦から来た男』には「〜がやってくる」という運動によって凌駕される“何か”がない。『ヴェルクマイスター・ハーモニー』には、冒頭から主人公がやってくる/去って行く、巨大な鯨がやってくる、群衆がやってくる、これらのゆるやかなリズムが連動している。とりわけ鯨の入っていると思われるブラックボックスが押し寄せてくる ひと繋ぎのシーンの巨大さ、懐の深さは、それがサイズとしては他を圧倒し、はみ出しているにもかかわらず、リズムとしては冒頭の天体運動と同じ速度でゆったりと進んでくる。それらがなだらかに胸をざわめかせる。カットを割らずに歴史まで跨いでしまうアンゲロプロスの映画にだって、〜やってくる/去って行く、行進する、闊歩する運動はふんだんにある。『イタリア旅行』(ロッセリーニ)の二人の物語は、最後にパレードという(まるで)物語外の世界からやってきた出来事に巻き込まれたのではなかったか。生起する(take place)という言葉は、凄まじい言葉だと思うけれども、映画にはその言葉のようにコントロールの極限で審美性からの逸脱*1を垣間みせる瞬間がある。タル・ベーラのもつモノクロの世界とは、全く異なる、これはカラーだけれども、『ヨーロッパ2005年、10月27日』(ストローブ=ユイレ)の5テイクには、花びらが時おり光を乱反射させながら舞い落ちる瞬間がある、また全編そのような“予感”に満ち満ちている。あるいは『エルミタージュ幻想』(ソクーロフ)、90分ワンカットのなかには常に高揚感がある。『倫敦から来た男』の冒頭の長い長い場面と、後半のモリソン刑事がマロワンの職場室内を取り調べる前のその反復の映像、そこには美しさはあっても、その裏窓的構図と距離からは何かがやってくるという慄きはない。(一方の『裏窓』には、その“戦慄”、“予感”が常にある)

結局、その二回目の反復の場面の後半、俯瞰していたキャメラが室内をとらえたとき、そこにヌッと/スッとモリソン刑事が現れる、そこに驚けなかった。実はタル・ベーラ長回しには、この最終的にヌッと/スッと現れる「目撃者」というのが要なんだろうとは思った。たとえば『ヴェルク〜』における群衆の行進から暴動にいたるまでの長回しの最後、壁をぐるりと回ってキャメラが最終的にとらえたのは、主人公の青年がそれを目の当たりにしたという姿だった。あるいは『倫敦から来た男』の中盤、カフェでモリソン刑事とブラウンが会話している、それらのやりとりが終わった後に別のテーブルでチェスをしている男の背中から正面にぐるりとキャメラが回ると、そこに話を聞き入っていたマロワンの姿がある。このようなロングテイクの後「目撃者」をフレーム内に持って来るという必殺技に驚けないのは、そのようなことの視覚的効果に私がまだ鈍感なのかもしれない。しかし『ヴェルク〜』が素晴らしかったと思うのは、そういった「目撃者」の不意の登場にハッとする、という劇的な体験ではなくて、やっぱりあの冒頭から始まる天体運動のおおらかなリズムがそのまま巨大な鯨の存在/不在とともに最後まで伸びて行く心地よさ、その過程に、ある ゆるやかな感情の充溢が感じられることだ。

『倫敦から来た男』は考えてみればみるほどよく計算されている。モノクロームの設計世界や音響だけでなく、彼らの関係性、マロワンの数少ない行動や表情によって示唆している事柄も多い。しかしあのマロワンの「目撃」から、モリソン刑事の「察知」に至るまでのあいだに散りばめられたシーン、マロワンと妻との衝突、アンリエットの仕事先の主との衝突、ブラウンの妻との小屋の前でのやりとり、これらの唐突な喧騒シーンと急いたリズムに、眼と頭が追いついても身体が追いつかない。操作棒を鳴り響かせるマロワン、彼が焦るまでの過程に、もう少し長く付き添いたかった。ジョルジュ・シムノン ミーツ タル・ベーラ。おそらくあの二度の構築された世界の反復/変転をもってくるには、この映画は短すぎる。