『あの夏の子供たち』といくつもの言葉たち

1954年の『フレンチ・カンカン』という映画で、ムーラン・ルージュでの踊りの本番直前、男が他の女性にちょっかいを出したことに拗ねた踊り子のニニが楽屋に閉じこもってしまう。そこでルノワールは、経営者のその男(ジャン・ギャバン)にこう言わせる。

「俺にスリッパを履かせる気か!?」

どんな強行手段に出られたって自分はこういう生活形態でしか生きていけない。人生を謳歌したけりゃ他を当たれ、と。現代。テレ-コミュニケーションの発達とモバイルな公/私生活環境は、ほとんど誰を当たってもそういう生活形態にしてしまっている。みんなスリッパ片手にケータイ履いて、自分のチグハグさに笑ってしまうのだった。けれどそれでも世界は/映画はルノワールの頃と何にも変わらないまま美しい光につつまれた表情をみせてくれる。『夏時間の庭』や『あの夏の子供たち』の、緑と陽光を帯びた世界や、笑ったり泣いたりの表情をみていると本当にそう思う。映画のことは大好きだ。そうやって世界も肯定したい。“Que sera sera” 大いなる肯定。

『あの夏の子供たち』を見ているあいだ、実にたくさんの言葉を思い出した。昨年『TOCHKA』という映画を監督した松村浩行は、あるインタビュー*1に、映画を撮る理由は、ひとつには一番楽しいから。そして一番辛い。その相反するふたつが共存するのが僕にとって映画なんです、と答えていた。

それと、どんなに否定的なものに関わらざるを得ないときにでも、映画には肯定することができるんです。人がいる、鳥が鳴いている。そういうことを、言葉を越えて肯定できるのは僕にとっては映画なんです。

それから『クリスマス・ストーリー』の監督アルノー・デプレシャンは、今年のフランス映画祭で来日し「映画では雪が降るだけで魔法になるんだ。それは子供にだって分かることなんだ。」という素晴らしい言葉を残していってくれたそうだ。フランス映画祭には行けなかったが、twitter上でそのことを知った。私はちょうどフランス映画祭が開催されている頃、金沢にいて、『ユキとニナ』という映画をフランスの俳優イポリット・ジラルドと共同監督した諏訪敦彦が講師を勤める「こども映画教室」というワークショップに参加していた。その現場でも私たちは、全力で走っているだけで簡単に映画からはみ出していってしまう魅力をもった子供たちに圧倒された。鳥が鳴いている、雪が降る、子供たちが走っている、たったそれだけのことで、いったい何が起きて私たちは感動してしまうのだろう。
映画作りにはきっと自在でない自由がある。それは複数の自由の点在とでもいうべきもので、俳優や自然や子供や物あらゆるものの中に秘められている自由であり、そんな世界の在り方のなかで、監督やスタッフ、役者たちはそっとそれに方向(direction)をつけてみようとしたり、演出や即興に向けての準備をしながら映画におまじないをかけようとするのだろう。
ムッシュ・シネマ」の中で諏訪監督はこのように語っている。*2

映画は世界を創造するのではなく、ただ発見するのである。映画=キャメラは世界を個人の世界観にねじ伏せるよりも、受け入れる事に長けている。映画には作者のコントロールを越えた「世界」が侵入してくるし、作為を越えた思わぬ出来事や、構築された意味や物語からはみ出してしまう何かが映り込んでしまう。「ユキとニナ」において、ユキを演じたノエ・サンピの顔立ちは、当然私たちが創造したものではなくただ映っているに過ぎないが、その彼女の顔そのものがこの作品では重要な映画の内容でもある。

同様のことは『あの夏の子供たち』の監督ミア自身も、映画について、子供たちについてnobodyのインタビュー*3の中(すべて引用したい勢いだけれども、リンク先に飛んでください)でも答えてくれている。これらは現代映画のある種の傾向なのではなく、かねてから映画のひとつのあり方として魅力としてずっと目指されてきたものではあるけれども、今も昔も未体験の人にはなかなか伝えづらいものだ。けれどもほんの少しでも興味を持ってくれる人にはどうにか口説いてみようと思うし、シネマの魅力に取り憑かれた者たちと遺されたシネマ/これからのシネマについて盛り上げていきたいし、これからもブラーボと叫んでいきたい。『あの夏の子供たち』は、映画内映画であること、映画をめぐるテーマであることを、1ミリも語らなくてもその魅力を語れるような映画であると思っているけれども、でも私にとって、父グレゴワールが「映画の権利は売らない。全てが水の泡になる。」とぼそっと助手に答える、彼のめまぐるしさに引き裂かれてもなお動かすことのできない動機の根っこの部分にある“映画が好きなんだ”という言葉なき告白にどうしようもなく涙してしまう映画でもあるのだ。グレゴワールなき後、かわりにオフィスにきた妻シルヴィアが「夫はあの映画を完成させたがっていた。」と言ったときのその“完成”という言葉に不意に『抱擁のかけら』の台詞「映画は完成させないと。たとえ手探りでも」がフラッシュバックし、折り重なってきてしまって涙を止めることが出来なかった。

映画のなかでいくつもの印象に残る好きなシーンがあるのだけれど、停電の夜、蝋燭をつけ、外に出て星空を見上げるところはとても好きだ。一生懸命に話している途中で急に停電になる。闇に浮かび上がる彼女たちの“表情”が、ただただ美しい。それに見上げられた星座にはどうしても父の“表情”を感じとってしまう。彼女たちを照らしている灯りと、星までの距離はとてもとても遠いものだけれど、しかし一つの星とその隣の星も同じくらい遠いはずで、それらが見上げられた画面いっぱいにコンパクトに収まって隣並んでいる。この終始アンビバレントな距離感。いるんだけどいないような、いなくなったんだけどすぐ近くにいてくれるような。まるで“ケータイ人間”の世界との近しさ、同じ部屋にいる人をときに寂しくさせてしまうような遠さ。グレゴワールみたいだ。
それからグレゴワールの親友セルジュ(エリック・エルモスニーノ)も良かった。街角で別れる二人の友のさりげない抱擁のシーン。このシーン一つで、二人の関係性や付き合いの長さが伝わってくるようで、また『8月の終わり、9月の初め』のことを思い出したりもして印象的だった。それと前半のめまぐるしくどこに行ってもグレゴワールかその助手か、あるいは子供たちか、誰かの身体がつねに動き続けて変わる画面でグリグリとキャメラがそれを追いかけて回る慌ただしさの分、一方でていねいに追われたグレゴワールと妻との手をつなぐシーンや、朝、次女と父親がじゃれあって遊ぶところ、長女が窓の外を見て佇む光景、4人の女たちが並んで川縁を歩くところなど、それらには対照的にゆっくりとした時間の流れが感じられて、愛おしい気分になった。これだけでも魔法なんだ。まだまだ何度も見たい映画*4名画座2番館や地方上映、何年後かの特集上映にも乞うご期待!! もちろんミアのこの先の映画にも。
“Que sera sera”

わたしは少女のとき、ママに聞きました

美しい娘になれるでしょうか?

ケ・セラ・セラ

なるようになるわ

先のことなど分からない

分からない

ケ・セラ・セラ  (「ケ・セラ・セラ」より)


あの夏の子供たちオフィシャルサイト*5

*1:nobody32:112〜115頁

*2:http://www.k-hosaka.com/nonbook/suwa.html

*3:http://www.nobodymag.com/interview/mia/index2.html

*4:この映画をめぐる言説はどれも好きなものばかりなのだけど、黒岩幹子さんのこの文章にも感激。 http://www.nobodymag.com/interview/mia/index3.html

*5:http://www.anonatsu.jp/index.html