これまでも、これからも

12日午前4時、こんな早い時間にふと目が覚める。まだ外は暗い。
つけっぱなしのパソコンの画面を開いてロメールの訃報を知る。
89歳で2010年にぬっと顔を出し、逝去されたエリック・ロメール
本名モーリス・シェレール。心よりご冥福をお祈りいたします。

「アトリエ・マニューク」*1岡田さんの日記にも書いてあったことだけれど、
日本はおそらく、フランス本国を除いて「エリック・ロメールの映画をもっとも多く劇場公開した国」なのだろう。ブログ、ツイッターでも多くの反応を目にする。かつてのシネヴィヴァンやシネセゾン全盛の時代ではなく、多くは名画座だが、個人的にも劇場で見たロメールの作品は多い。いや、しかし『グレースと公爵』『三重スパイ』『我が至上の愛アストレとセラドン〜』のおかげで、日本でも多くの後の世代がリアルタイムでのロメール経験者でもある。
去年 引っ越すのだという先輩にVHSを50本以上いただいた。その中にはロメールの作品が幾つもあって、未見のものも混じっていた。どれにしようかと思いながら、まだ空も明るくないうちから窓のシャッターを下ろして、『冬物語』をいま一度 鑑賞する。

朝方、その先輩からも「ロメール亡くなっちゃった。さみしいね」とメールが届く。しばらくはそんなロメールのあれこれを友達と語らうのも何だかいいなと思って、さっそく何人か友達にもメールする。みんな よくロメール作品の劇場体験を覚えているものだな、と思う。ロメールの映画をみていると、“段々と”気持ちが変化する。最終的には愛おしくさえ思えてしまったキャラクターっていったい何人いるだろうか?
“愛着” ロメールの映画をみているあいだに、いつのまにか、ひっついてしまった感情。べつに好きではなかった人物でも、映画の時間の流れのなかで、愛おしくなってしまった。そのような形で、映画は/ひとは、会話しながら気持ちを変える。このまさに変わるか、変わらないかの連なりを、劇的な瞬間を用いて一変するのでなく、その狭間にいて、どうしようもないほど揺さぶり続け、宙吊りにするのがロメールである。気持ちを掻きむしられたのは登場人物の心の内か? 違う。その身振りをみている我々の心の内が結局は掻きむしられたのだ。 それはどこまでも続く会話のせいなのか? 違う、それだけではない。
ひとりで階段をのぼる、おりてくる。ひとりで浜辺を通り過ぎる、何か食べる、泣く、二人で部屋にいる、浜辺にいる、車にいる、木陰にいる、立ち去る、また戻って来る、皆で食事をする、パーティーにいる、家で誰かに話しかけられる、ひとりになる、出掛ける、どのシーンが と言うよりはその連なりの配置(アレンジ)がロメールの妙なのだろう。
二人はカットバックするのでなく同じフレームにいる、あるいは一人は足や手しか映っていない、フレームから外れたり戻ってきたりする、あるいはロングテイクで遠くからしか二人の出会い、やりとりが見えなかったり。どんな魔法か知らないが、われわれはいつの間にかスクリーンの上の彼らが気になって仕方がない。自然光と自然の鳴き声のような外のサウンド、時間は映画の展開のために流れない、彼らのために流れているのだと思うような展開。この“もどかしさ”は演出されたものだ。そして“もどかしさ”とは既に、“愛おしさ”までの段々畑の中腹にある感情なのである。
みんなロメールが亡くなって、こんなにまで悲しかったり寂しかったりするとは思っていただろうか。彼の映画のなかに何となくどこかで思い入れのある奴がいたのかもしれない。

昼前、少しのあいだ外の雨が雪に変わった。もうどこに書いてあったのか、確かなことなのか思い出せないが、ロメールが『モード家の一夜』を撮影中、それまではずっと雨も降らなかった天候なのに、ロメールが「明日は雪が降る」と言って本当に雪が降ったのだそうだ。

昼過ぎ、先週 面接を受けた半蔵門に赴く。就職が正式に決まる。さっそく引っ越しをすることになる。今月中に町田から鎌倉へ。せっかくのワイズマンもしばらく見れないな、と思う。これからはノンフィルムの活動が増える。上映の際には映写もする。企画・運営も携わる。思えば一年前のこんな時期にもスーツを来て銀座のあたりを歩き、ある会社を訪ねたのだった。それが終わってから、銀座テアトルに行って『我が至上の愛アストレとセラドン〜』を見た。心躍る思いだった。あのとき最前列でみたという記憶は、いまも鮮明に覚えている。
フィルムがいじれなければ…。フィルムがいじりたい…。その一週間後、会社を探すのをやめ、劇場&映写スタッフをすることに決め、応募する。運良くすぐに決まった渋谷の劇場に、ちょうど一年間働いたその劇場に、三時過ぎに電話をする。支配人はじめ みんな急な決定に喜んでくれる。「今月いっぱいだけれど」「寂しくなるね」

夕方、不動産や諸々、連絡をしていたらケータイの電池が切れる。ロメールの映画をしばらく思い返す。ロメールが日本で公開されたのは結構 遅いのだそうだ。『海辺のポーリーヌ』が1985年ということは、トリュフォーが亡くなってから一年が経つ。未来の観客たちは、これから先、映画のテクストを開いて「ヌーヴェル・ヴァーグ」を調べるとゴダールトリュフォーロメールという名前を見かけるだろう。同じように並ぶ名前だが、日本ではロメールが紹介された頃にはもうトリュフォーの新作は存在し得なかったのだ。多くのロメールの映画を劇場公開した日本において。
このことはきちんと記憶しておきたい。
去年はトリュフォーの没後25周年。私の生誕も25周年。神保町シアターではトリュフォーの特集が組まれた。ロメールの没後25周年はこれから25年後。その頃おっさんとしてまだ私が存在するのなら、「ぬーうぇる・ゔぁ〜んぐ」に関して、きちんと記憶したことを説明せねば、と思う。ちゃんと歯もそろっておいて欲しい。

夜、とある教室にて。ユーロスペースアテネフランセで今年 上映することになる二作品の企画が最終的な審査、講評の後、決定した。これからが本番。これからが楽しみ。本企画は諸々もう少し事が決まってからのお知らせになる。


夜中、帰宅。今日は鍵がすぐに見つかった。長い一日だった。
さて、引っ越すとなかなか都内の劇場に通う回数は減るかもしれない。それでも行く。それからしばらくはずいぶんとたまってしまった未見のDVDをみるいい機会。まだ日本では見られぬ作品にも手を伸ばす。このブログも下書きばかり増えていく。いろいろと書いておきたいことはあるのに。それでも、いずれ仕上げる。


最後に、フィルムセンター主幹でありFIAF会長でもある岡島さんの言葉*2より

100年後を考えてみてください。たとえばフランスでは、
100年後、明らかにジャン・ルノワールの映画のネガが残って
いるでしょう。アメリカではジョン・フォードのフィルムのネ
ガが残っているでしょう。日本だけが100年後、成瀬巳喜男
作品のネガを残していないとすると、それはそのネガに今ほど
は大きな意味が無くなっているかもしれないにせよ、文化的な
損失であることには、いささかの変わりもない。そのことをみ
なさんに理解していただければと思います。


同じように、日本で公開の実った多くのロメール作品が、
これまで多くの観客の映画体験を豊かにしてきたこと、
これからも、その意味をなくしてはならない。