パブリック・エネミーズ

パブリック・エネミーズ』(2009、マイケル・マン



地元シネコンにて鑑賞。(かなりネタバレあり)


髭のないジョニー・デップが初々しい。ひょっとすると『アリゾナ・ドリーム』の頃くらい初々しい。基本的に髭を生やしたり帽子をかぶったり化粧をしたりと何らかの加工を施したジョニー・デップは、少なくともスチールで見ていて格好いい。様になっている。雰囲気もある。
では髭のないジョニー・デップってどうなのか? 毛を毟られた羊とまでは言わないが、何となく幼くみえて頼りない感じがする。


ところで、この映画でジョニー・デップデリンジャーって結局 何をしたろうか? これは一つ問うてみる必要がある。
世界に愛された指名手配犯? そんなシーンはあったのか? たしかに途中、彼は記者に囲まれて受け答えする。しかしそれで我々は、彼が市民から愛される“キャラクター”であったことを了解する何かを感じただろうか? 大恐慌時代、奪うのは汚い金、何度も脱獄を繰り返すデリンジャー。銀行を襲撃するシーンは何の脈絡もなく、はじまる。脱獄の場面もそうで。それらに銃撃はあっても人の感情の揺らぎにハラハラするような緊迫感はない。銀行の来客に小銭をしまっておけと彼は言う。そのシーンひとつで、彼が周囲に愛されていたことを納得してしまうに至る力はなかった。全体として、デリンジャーと外との繋がりは描かれていないのである。 それでは(仲間)内との関係性はというと、今度は彼にリーダーシップやただならぬ凄みを感じる場面もついぞ見当たらない。もしかすると私が怠慢で見落としていただけかも知れないが、映像のなかで、いつの間にか皆が(市民が/仲間が/ビリーが/観客が)彼を愛してしまっているということの事態を納得・了解するマジックにはかからずに前半を見終えてしまった。
だからヒロインとのやりとりでも、どこかデップの言葉に凄みを感じず、ただただ気障りな浮いた言葉が発せられたような感じがする。それでもヒロイン=マリオン・コティヤールが見せる表情の切り返し、その連なりで、かろうじて二人の関係性にはマジックにかかる。いつの間に、そんなに、愛しちゃったの※1というマジック。
では今回のデップはミスキャストだったのかというと後半そうも感じなくなる。デリンジャーという男、彼は銀行を襲撃し、捕まっては逃げてを繰り返していただけの男なのかも知れない。実はけっこう情けないヤツなんじゃないのか。だからデップお得意の謎の雰囲気やただならぬオーラなど前半の“エネミーズ”であるうちには必要なかったのだ。銀行を襲って一時代を築き上げはしたけれど、すでに彼の稼業は時代遅れのものとなりつつある。要するに今回のジョニー・デップには、風格よりも情けなさが顔に出ていて、これで良かったのである。
一方で、たとえばクリスチャン・ベイル=パーヴィスには多くの見せ場があって、凄みがあった。それは鉄格子を挟んでデリンジャーとパーヴィスがはじめて対面する二人の立ち居振る舞いからも明らかな違いを見て取れるだろう。電話で上司に救援を願い出るシーン、フーバー長官との切り返しのやりとりなど素晴らしかった。これはこれで忘れがたいものがある。が、しかし…。
それは『3時10分、決断のとき』におけるクリスチャン・ベイルラッセル・クロウほどの迫力ではない。もっとも、これは当然である。マンゴールドは[3:10]にいたるまでのプロセス、時間の連なりをずっと追っている。道中、何を起こすかわからない二人の危うさ、言葉のやりとり、関係性や立場の変化がやがて来たる[3:10]まで続くわけだから、あれは凄まじい迫力がある。(もちろんそれだけではないが)
同じように、「顔」と「顔」で繋ぐ切り返しのサスペンスとして『パブリック・エネミーズ』とトニスコの『サブウェイ123』*2を比べてみても、後者がやはり優位なのは、トニスコの場合、画面のほとんどがぎゅっしりとして遠くを見通せない狭苦しいものになっている(だから途中でビルや朝日を俯瞰するショットが入ると一瞬だけ気分が解放され、それが映画のリズムともなる)のに対して、マイケル・マンの場合はフレームに空が映る、薄茶色くて広い天井が映る、それからデリンジャーとビリーの二人は同じフレームにも収まることがある。そもそも遠方 二階や屋根上からの銃撃や野外の暗闇の中でのシーンを持ち出したいマイケル・マンにとっては、それは致し方のないことなのかも知れない。
いささか乱暴な比較と振り分けをしてしまったが、それではこの映画には何があったのか。ひとつにはmaplecat-eveさん※3の言うように、『ヒート』同様の引き伸ばされたサスペンス、追いつめられ野外の暗闇へと出て行く逃亡劇。もうひとつは、「嗤うデリンジャー
そもそも彼を「パブリック・エネミーズNo.1」と名付けたのは誰なのか? この時代にはすでに銀行強盗よりも儲かる悪徳商法が流通しはじめていて、デリンジャーのかつての仲間内にもそっちに身を翻した輩がいる。そんな中、強盗をしては州一つまたいで逃げおおせていたデリンジャーに白羽の矢がたつ。その事態になってからの、追いつめられてからのデリンジャーの行動は、やはり奇特だ。自らの捜査局におもむき、鏡をみて嗤うデリンジャー、包囲網から脱出してきた男、彼以前の世界の“自由”と、それ以降の捜査網とメディア情報網。これまではビリーを拷問し、誤った情報をつかんで突っ走るような、そんな捜査官だったのだ。やがて組織を拡大させていくことになるFBI。髭の生えたジョニー・デップ。劇場のスクリーンに、メディアのなかに、彼は彼を発見する。しかし彼自身は、観客の誰からも発見されないのだ。
最後の言葉は、ヒロインにだけ遺されたメッセージだったのか。 あれは彼女に対する別れと祝福の言葉である一方で、これからの世界に生きるエネミーズたちへの呪いの言葉ではなかったか。





※1:nobody32 濱口竜介監督の文章「映画におけるISAウィルス問題に関する研究報告」が面白い。現在のドキュメンタリーに対して信じられている力と同じくらいには、もっと、フィクションの力を観客に信じて欲しいし、信じたいと自分も思う。 ISA=「いつの間に・そんなに・愛しちゃったの?」
※2:maplecat-eveさんの日記 2009-09-09 
※3:maplecat-eveさんの日記 2009-12-12