愛と希望の街

『愛と希望の街』(1959、大島 渚)  


大島渚も59年から監督としてのキャリアをスタートした人だった。50周年である。
これは鳩を売る貧乏な少年と、たまたまそれを買った裕福なお嬢さんのお話。
この映画、何が凄いって群衆がみんな 背中を向いているのだ。
貧乏な少年と裕福な少女、彼らはそんな街行く人々の中から くいっとこちらを向いて、
たまたま浮かび上がることになった二人(と彼らをとりまく幾人か)なのだ。

だから「またね」と手を振って群衆の背中に消えるときの少女と、
同じく群衆の背中に紛れて歩くシーンでの少年にはハッとさせられる。否、むしろゾッとさせられる。


たとえば群像劇の場合には、街行く何人かの人物にスポットがあたって、
彼らを取り巻く状況がクロスカッティングして展開され、
やがてそれらがある方向へとディレクトされて行くのが一般的と言えよう。
街行く人々のすべてに同じくスポットが当たるような、ピックアップされた主人公がいるのでなく、
全員が主人公であるような そんな映画を撮ろうとしたのは
アラン・レネで、63年の『ミュリエル』がそれであるらしい。
(今年の横浜日仏シネクラブで見直したときには、
そういった視点から幾つもの発見があって面白かった)

『愛と希望の街』において展開されるべくは、
彼ら二人と彼らを取り巻く人物たちの物語が中心であって、
しかしながら社会的格差の象徴たる彼らのパーソナルな物語は、
そのまま時代性を表象することとなる。

そんな彼らが大勢の背中しか見えない群衆の歩行、歩道の奥行きのなかに埋没し、
無名性に帰するとき、彼らはたまたま顔を覗かせた“誰か”だったのだと思わせる。


平和ではなく伝書、通信としての、流通としての、ネットワークとしてのシンボル、鳩。
少年が鳥かごを斧で壊すシーンも凄まじい、凄まじ過ぎてちょっと笑けてくるくらいなのだけど、
引き裂かれることへの演出が細かいアイテムから何から行き届いているように感じられて素晴らしい。

それから身にまとう社会性=コスチュームの役割にも非常に意識的である。
お嬢さんの格好と手土産……というか少年が寝るときに学ランなのだ。

これだけ衣裳の役割がそのまま各人の社会的立場の違いを表し、
そのことによる引き裂かれの残酷物語を描くのって、現代だとジェイムズ・グレイか。